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山本ペチカ
山本ペチカ
novelistID. 37533
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第七章 『大(オオ)顎(アギトノ)真(マ)神(ガミ)』

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 あの少年は、蜘蛛の糸を伝う危うさと不完全の上に立っていた。けど、それ故に彼は完璧だった。画竜点睛を欠くあの状態だからこそ、まだ儚が依存できる余地があった。あの子にとって自分は必要な存在なのだと、思わせてくれた。
 その均衡が崩れてしまった。
 本来心を持たないはずの人形が、自我に覚醒させてしまった。
 心を持ったピノキオは、世界を知るために旅に出る。
「だからハッくんも……」
 この手から離れていってしまったのか。
 延々と答えの見えない堂々巡りの思考を繰り返しているうちに、儚はファウンデーションへ着いていた。その足は、家へは向かわない。いつもハッカが座っていたセンターエリアのスクランブル交差点前の階段。ちょうど日も暮れ、空が黒衣をまとい、街が電飾の盛装を始めた時だった。ハッカはいつもどんな気持ちで独りぼっちの街で黄昏ていたのだろう。あの子もずっと、何かを待ち続けていたのだろうか。
 でももうそれも、わからない。ハッカはきっと二度とここへは来ない。このスクランブル交差点のように、心は交わってくれない。

『儚ぁ……』
 そんな心を傷めた少女を憂いてならないのは、守護神の真神だ。彼もまた自身の無力さに打ちひしがれていた。元々、この大(オオ)顎(アギトノ)真(マ)神(ガミ)は儚の幼少期からの育児放棄(ネグレクト)や学校でのイジメなどから常に守られていたいという欲求から生まれた、謂わば他人格だ。ユング的な分析心理学でいうところの父性権力(アニムス)の象徴が狼神という仮面(ペルソナ)をまとい精神から乖離した。そんな彼にとって、儚を守ることこそがあたえられた唯一無二の存在意義(レーゾンデーテル)。
 けれど守れない。どうしようもなく守ることができない。あまつさえ儚は人形を愛でるが如く心のないハッカに依存する始末だ。
 ならこの大(オオ)顎(アギトノ)真(マ)神(ガミ)の存在価値はどうなる。神でも、ましてや人間ですらないこの不完全存在に、生きていく価値は、儚の傍にいる価値は、はたしてあるの否か。

『もうあの小僧のことは忘れろ。最初から無理だったのだ、あのような人としての欠陥品にもうなんの未練もなかろうに』
 ケッカン……、ヒン?
「ちがう! ハッくんは欠陥品なんかじゃない!!」
 いくら他人への無関心と傍観を心情とする都会の人々でも、この異質な雰囲気で大声を張り上げる少女に対しては奇異の眼を向けずにはいられなかった。
 スクランブル交差点の隠れた隅、潰れて久しいテナントビル前の階段に、未だかつてない視線が注がれる。しかしそれもほんの数秒の出来事、街は、人は再び機能を取り戻す。何ごともなかったかのようにだ。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ、うそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだ! ハッくんは欠陥品なんかじゃないハッくんは壊れてなんかいない。だって初めからそうだったんだもん。でも最初から壊れてるから欠陥品って言うから、でもだからこそおんなじ儚のことを感じてくれた。儚とハッくんは最初から壊れてたってことなの? じゃあ今のハッくんは何? 直ったってこと、まともになってしまったってこと? そんなのダメ。儚独りが置いてけぼりなんてヤダ! ハッくん、ハッくん、ハッくん、ハッくん、ハッくん、ハッくん、ハッくん、ハッくん、ハッくん、ハッくん!!」
 少女の思考は、すでに意味をなくしゲシュタルト崩壊を引き起こしていた。このままでは本当に、心を病むどころか粉々に壊れてしまう。その時だった、少年が放った一言が不意に脳裡に去来したのだ。

──オマエは誰かから心配されるほど大切な人間なのか? 特別な存在なのか?

 だったら、特別な存在になってやればいいじゃないか。なんでそれに早く気がつかなかったんだ。ハッカから心配されて、また守ってもらえるだけの、特別な、とびきり特別な、特別な存在に。誰にも負けない、誰にも追いつかれない、そんな存在。もし、他の特別があるなら、そのことごとくを否定してやる。みんなみんな否定して、拒絶しつくしてやる。それこそが、自分を肯定すること。肯定し尽くした先にあるのが、並び立つもののない唯一無二の〝特別〟。
 その時だった。

『そんなに特別が欲しいなら、いくらでもボクがプレゼントするよ』

 携帯電話の着信メロディーが、ざわめく雑踏の中で響いた。誰からもかかってこないせいで、自分で設定しておいていながら忘れかけてしまうほどに久しく鳴った、音だった。
 着信はメールだった。メールランプが点滅している。
 怪訝に思った儚は、二つ折り携帯を開いた。
 しかし画面には何も映ってはいなかった。電源を切った覚えなどないのに真っ暗だった。すると薄っすらシンボルが、紅い鳥居が浮かんでくる。
 玲瓏な鈴の音が、耳の奥で響くように耳朶を打った。
 シャン、シャン、シャン、シャン。
 液晶モニタに完全に鳥居が姿を現すと、文字キーが独りでに光り始めた。
「あ……、ぁ……」
 儚の親指も、独りでに動き出す。打った文字が、古印体となった鳥居の下に並んだ。
「あ……、遍くセカイの片すみで……」
 打ち込んだ文字がのどの奥から口を衝いて出る。
『儚? どうした、儚!』
 右手(マガミ)が主人の異変を察知する。しかしそれも遅かった。

「飢えたのどを────掻きむしる」

 その瞬間、スクランブル交差点の片すみにいた少女は消えた。誰の気にも止められることなく、なんの痕跡も残さずに──いや、
 パサリとコンクリートの階段に薄汚れた布が落ちた。
 狼を象った、手作りのマペット。
 少女がそこにいた、ただ一つの証跡。しかしそれこそこんなものに気を止めるものなど、誰一人、いなかった。

† † †

 かごめかごめ 籠の中の鳥は

 辺り一面に広がるのは鬱蒼とした竹林。そこに霧が灰色の紗(しや)幕(まく)を垂れ込めている。
 風はない。竹同士がぶつかる音もしなければ、笹の葉擦れのざわめきすらない。
 ただ、そんな静かな竹林の中で響くのは、三(み)千(ち)歳(とせ)儚(はかな)の旧びた石畳を踏みしめる足音だけ。
 彼の進む石畳の上には鳥居があった。真っ赤な朱に染まった明(みよう)神(じん)鳥居。それも一つではなく、何千なのか、それとも何万なのか……。途方もない数が林立して、朱色のトンネルを象っている。

いついつ出やる

 儚の目は虚ろだった。目的がわらない。それでも足だけは前へ出た。いったい何時間、儚はこうして歩き続けているのだろう。もしかしたら何日間も──いや、ひょっとしたら生まれた時から歩き続けているのか。儚には今が昼なのか夜なのかすら判然としない。ただ実感としてあったのは、いろいろな感覚や感情が一つずつ麻痺して壊死して腐り落ちていくような、途方もない喪失感だけだった。

 夜明けの晩に

 不意に、霧が濃くなる。水に牛乳をまぜたような空気が、四方をさらに強く覆い隠す。儚の呼吸が荒くなる。空気を吸っているのではなく、まるで水を飲んでいるよう。頬や前髪を、つぅと大きな雫がしたたり落ちる。いつの間にか、儚は春雨を被ったように濡れそぼっていた。

 鶴と亀が滑った