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山本ペチカ
山本ペチカ
novelistID. 37533
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第七章 『大(オオ)顎(アギトノ)真(マ)神(ガミ)』

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 ハッカは儚の足の甲を踵で踏み抜き、手首をつかんでいる手に噛みついた。
「ひああぁぁ!? 痛いよハッくん! ……ハッくん?」
 困惑する儚をよそに、ハッカはアスファルトに手をつき四つん這いになってなくした紙幣を探している。
「ない、ない、ない! どこにいったんだよ、くそっ!」
 永久クンからもらった大切なお金なのに!
 どうしよう、見つからないよ。せっかく永久クンがまかせてくれたのに、頼んでくれたのに!
「どうしたのハッくん……落し物したの?」
「うるさい、アホ! オマエのせいだ! オマエがいきなりぶつかってきたりするから、永久クンからあずかったんだお金がなくなったじゃないか!」
「ナガヒサくん? だれかな、その人? お金なら儚のを上げるよ。それでなにか買お、お菓子でも、おもちゃでもなんでも買ってあげられるよ」
 儚はポケットから財布を取り出す。色気も何もない、茶色いくて地味な、紳士ものの薄汚れた財布だ。それを眼にした瞬間、儚の言葉を耳にした刹那、ハッカの中で飽和し沈殿していた感情の結晶が化学反応を起こして爆ぜた。
「うわああああああぁぁぁぁぁアアア!!」
 ハッカは儚に飛びかかり、一回りも二回りも体格の大きいはずの彼女を、何と押し倒し馬乗りにした。
 ハッカの心の底で弾けた〝それ〟は、暴力というカタチで質量をともない現実へと干渉する。組み伏すハッカは儚の顔目がけて何度も拳を振り下ろした。

 なんでこんなやつが。
 こんなやつのお金と永久クンのとが釣り合うもんか。
 なにも知らないくせに、なにもわからないくせに。
 なんなんだよ、その汚い財布は、汚いお前は。
 せっかく新しいスタートが切れると思ったのに、こいつはぼくを縛ろうとする。あの空っぽで空虚だったころのぼくに縛ろうとする。
 だったら否定してやる、今の、このぼくを守るために、肯定するために、この薄汚くて矮小なちっぽけな存在を──。

 感情という渦の中を、無数の泡沫が生まれては消えてを繰り返す。
 ハッカの拳が、儚の顔を逸れて固くてささくれだったアスファルトを叩いた。じんわりと広がる熱と痛み。そして、そして自分の股の下で涙を流して啜り泣く少女。
 はたと、ハッカは我へと帰る。
 拳から血が滴り落ちるのを見ながら、すっくと立ち上がった。
「ひっ……、ひぐっ。ハッ……くん?」
 顔を庇っていた腕の隙間から、儚は自身を蔑み見下す少年を見上げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。お願いだから儚のこと嫌いにならないで、なんでもするから、ハッくんが嫌がることは何もしないから。だからお願い、お願いだからそんな顔で儚を見ないでよぉ……」
「………………………………フン」
 ハッカはなにも言わず、静かに落ち着き払って様子で踵を返した。心の秒針は、もう零から離れなかった。
「待って、お願いだから待って! 儚を一人にしないで、儚がんばったよ、一生懸命ハッくんをさがしたよ? 学校でイジメられてももう泣かなくなったよ。お父さんとお母さんに何もしてもらえなくても、ちゃんと自分一人でがんばってるよ。すごいでしょ、えらいでしょ? でも辛いんだよ? ねぇ、かわいそうでしょ? だから儚を守ってよ、儚がイジメられないようにどこかに閉じ込めてよ! ねぇ、ハッくん!!」
「うるさいッ!!」
 取り縋って泣きつく儚を、ハッカは文字通り蹴りで一蹴する。
『何をするか小僧ッ! 儚は夜の間鳥目で役に立たない儂に頼らず、一睡もしないで一晩中捜し続けたのだぞ! 謝れ! でなければその首掻(か)っ切るぞ!!』
 日本の狼伝承に、大(おお)口(ぐちの)真(ま)神(がみ)という家を空き巣や火事などから守ってくれる御利益の狼神が存在する。しかし〝犬・狼〟といった獣には、そういった家を守る番犬的な側面(かお)以上に、神話や伝承の時代から洋の東西を問わず、乙女を守護するものとして記されていることが多い。けれどもここにいるのはただのスエードのマペットで、物理的に守護するのは不可能といっていい。しかし儚のために激(げっ)昂(こう)する真神の姿は、普(ふ)遍(へん)的無意識から面々と受け継がれる少女の貞操(ていそう)観念(かんねん)ないし父性(アニムス)を象徴・体現化した〝狼の元(もと)型(がた)〟そのものだった。
「それがどうした、黙れよ駄犬」
 ハッカは儚の右手にはまった真神(マペツト)をつかむと、そのまま地面へかなぐり捨てた。
「あ……、あああぁ……真神サマが、真神サマが」
 落ちた真神を拾い、地面にへたり込む儚げな少女。
「オマエは」
 あひる座りをする儚に、ハッカは一歩、歩み寄った。
「オマエは誰かから心配されるほど大切な人間なのか? 特別な存在なのか?」
 射殺すような、冷厳な眼差し。起伏も抑揚もないいたく冷静で落ち着き払った声音であるにもかかわらず、酷く峻烈で突き放す……言葉だった。
「憐れだな。オマエはどうしようもなく惨めだよ」
 儚はびくりと肩を震わして萎縮し、涙を流した。明らかに動揺している。
 ハッカはそれ以上何も言わず、ただ足音だけを響かせながら身を反転させた。
「ハッくんだって……」背中で、むせび泣きながら名前を呼ぶ声がした。「ハッくんだって……かわいそうだよ」
 ハッカの足が止まる。
 ──ぼくが……、かわいそうだって?
 ハッカは即座に背後の儚に振り返る。
儚はハッカの形相に怯えた。
「…………はっ、くぅ」
ハッカは何かをしゃべろうと大きく口を開けたが、直ぐにその口を閉じ、代わりに拳が真っ赤になるほど握り締めた。
「絶交だ」
「え?」
 儚の涙が引いた。
「もういい、アンタとは今後いっさい顔も合わせないし話もしない。…………絶交だよ」
 そう言って、また静かに歩き出す。その小さな背中は、誰も隣に並び立つのを許さなかった。

† † †

 暁刀浦からファウンデーションへと続く橋。
 暮れ泥む夕陽、残照が空を彩る落日の時間。
 少女と、その右手に宿った犬神はまさに失意の底を歩いていた。
 こんなはずじゃない。
 どうしてわかってくれないの。
 こんなにかわいそうな儚を、こんなに脆弱な儚を、どうしてハッカは守ってはくれないのか。
「ちがう」
 あんなのはハッカじゃない。
 以前のハッカは冷たいけれど、その中は空っぽで空虚で、誰も拒まない真綿のような何かがあった。
 でも今はもうない。唯一儚が縋れた場所は、もうなくなっていた。
 誰がそれを奪った? 誰がハッカを変えてしまった、あの素直で可愛らしい、ちょっぴりへその曲ったいじらしいあの子は……いったいどこへ行ってしまったんだ。
「イノリ……ヤ」
 ハッカが言っていた、儚の知らない単語。
 シャチョウ、ナガヒサくん。この二人がハッカを変えてしまったのか。この二人が……儚からハッカを奪っていったのか。
「許せない」
 誰なのかは知らない。けど自分だけのハッカを、あの自らの歪な内面を理解できない憐れな少年を────────────目醒めさ(きづか)せて、しまった。