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山本ペチカ
山本ペチカ
novelistID. 37533
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ウロボロスの脳内麻薬 第五章 『懺悔ホストクラブ祈り屋』

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「そう。だからお前はおそらくだが……、まだアルジャーノンじゃない」
 少々煮え切らない言い方だったが、唐鍔牧師はそうハッカにさとした。
「まだ……アルジャーノンじゃない」
 よかった。ぼくはまだ、死なない。
「……よかった?」
 ぼくは今、何を考えたんだ?
〝死ななくてよかった〟──なんでぼくは、そんなことを思ってしまったんだ。
 自分と他人の価値が等価であったはずのハッカが、どうして自分を優先する思考をしてしまうのだ。いったいいつからだろう……、思案するまでもなく、それはきっと《セカイの果て》から難を逃れてこの祈り屋で生活するようになってからだ。
 ──なんなんだよ、この惰弱さは!
 ──人前で、しかもあんなにみっともなく取り乱すなんてッ!
 ハッカは奥歯を噛み締めた。その表情は明らかに不快さで歪んでいた。
「なんで……そんなこと知ってるのさ。デジタルドラッグのこともアルジャーノンのことも」
「それを訊くかい。そうかい、そうかい。ったく、仕方ないないなー、本当にー」
 唐鍔牧師は「ふっ」と微笑し、口端を上げてそこから皓歯をのぞかせた。
「ならば秘密を教えよう、君だけにっ! 特別に!
 この世界には二つの巨大勢力が存在する!
 表と裏、光と闇!
 この二第勢力は日夜人知れず途方もない攻防を、終わりなき闘争を繰り広げている! はるか昔、宇宙で前史文明が帝国と共和国に分かれて対立していた時代からっ!
 光の勢力、秩序と調和をこの世に取り戻すのがわたしたちコスモスの役目! つまりはイイモン!
 襲いくるは悪の秘密結社、狂ったマッド・サイエンティスト、セックスカルト教団!
 今回わたしたちはダークサイドがこの町でクスリの実験をしているのをつかみ派遣されてきたのだ!
 そう、ボクらの地球は狙われているんだ!」
 カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ。
 唐鍔牧師が話している間、ハッカはエレベーターの前まで移動していた。それから猛烈な速度で〝上へ〟のボタンを連打しまくっている。
「待ちたまえ、まだ話は終わっていないのだよ!」
 その時チーンと音が鳴った。この旧いホテル同様、エレベーターは旧式の真鍮格子ドアになっていて、そこに大きな箱が落ちてくる。
「こっからはちと……、真面目な話になる。座れ」
 つかまれた肩から伝わるのは、異様ともいえる握力の力強さ。決して痛いわけではない。熱量だ。女性の掌とは思えない熱が、そこにはあった。
 そうして二人は再びソファーに着いた。
「こいつを見ろ」
 そう言ってテーブルに置かれたのは赤い布で装丁された一冊のハードカバーだった。
 表紙のタイトルは『ウロボロスの脳内麻薬』と金字で題され、手にしてみるとやはり重い。ページを開くと紙面にはところ狭しと活字が並び、奇怪な挿絵と意味不明な数式とが渺々と数百ページに渡り印字されている。とても人間が読むのものとは思えない。
ただ何らかの学術的な論文や草稿のようなものだということは、ハッカにも検討がつく。
 しかしここでこれを持ってこられる意味がわからない。
 ハッカは「これは?」という問いの眼差しで唐鍔牧師を見上げた。
「犯行予告状だ」と言って言葉を切り、永久のホットサングリアを横取りし一口で呑み下した。「ブレインジャック事件のな」
 論文が犯行予告状?
「そいつにはな、今回の事件の全容・真相、そのほとんどが初めから予期していたとしか考えられないくらい、精緻に記されているってことさ。お前、カオス理論って知ってるか?」
 ハッカは首を横に振った。
「だろうな。じゃあバタフライ効果、風が吹けば桶屋が儲かるってわかるか。何てことはない蝶の羽の動きが、実は巡り巡ってより大きな事象を呼び出したりすることなんだが……、例えば映画やドラマとかで主人公が過去へ飛ばされる話は、わりとよくあるだろう。主人公の何気ない些細な行動が、実は時間の経過によって未来を、歴史を改変してしまうってヤツだ」
 そういう風に説明されると、確かに昔週末の洋画ロードショーでそういう風な映画を何度か観ている気がした。
「方程式や関数……って言っても小学生にはわからんか。確固としたデータの導き方がないとしても、一見離れている点と点は、実は見えない線でつながっているんだよ。
 この本にはな〝人の思考や意識っていう眼には視えないものが、どれだけ現実に影響をあたえているのか〟そんな突拍子もないことが書かれているんだよ」
 その説明に、ハッカは腑に落ちず眉根を寄せた。
「それがなんなの、いったいどう事件と関係してるのさ」
 すると永久が口を開いた。
「麦ちゃんにはさ、絶対無理だってわかってる、けどどうしても叶えたい夢とか願いってある?」
「なに、いきなり。それこそ関係ないじゃ──」
 言いかけて、ハッカははっとして息を呑んだ。永久の問い。それは以前、スクランブル交差点前で相澤真希とした会話の焼き直しだったからだ。
 あの時彼女は言った。自分はどんな願いも叶う神社《虹蛇ノ杜》で今までのアタシそのものを否定してやりたいんだ──そう、切に語っていた。
 そしてハッカ自身さえも、もう一度亜鳥と逢いたいという一心から再び《ケータイ交霊術(コツクリさん)》から《虹蛇ノ杜》へアクセスを試みていた。
「夢や願いっていうのが頭の中で閉じ込められてるイメージなら、それを叶えるってことは実体化させるってことじゃないかな」
 それってつまり……。
「俺たちがかかずらってた都市伝説と、このウロボロスの脳内麻薬の骨子(レジュメ)は重なり合っている」
 確かに永久の言う通りだ。けれど、
「けどそれって、単なる偶然なんじゃないの? その論文が机上の空論なのかもしれないし」
「賢(さか)しいな。餓鬼はすぐに小難しい言葉を使って背のびしたがる」
 皮肉の塗られた言葉だった。ハッカは旋毛を曲げ、無返答という返答を返した。
「だがな、この事件は偶然でも机上の空論でもない。ましてや必然なんていうあらかじめ用意されていたようなご都合主義なんかじゃ決してない。
 蓋(がい)然(ぜん)なんだよ。手繰すね引いてるやつがいる。ほくそ笑んでるやつがいる。だったらそいつを叩くしかないじゃないか。だったらそいつの鼻っ柱へし折ってケツの穴に手を突っ込んで奥歯ガタガタいわせるしか、方法はないじゃないか」
 ぱしっと右手拳を左掌(てのひら)に叩きつける。唐鍔牧師の眼は本気だ、爛々とぎらつかせ殺気を迸らせている。
「お前は現実と非現実の線引きをする明確な数字がわかるか」
「数字?」
「一〇のマイナス三三乗(じよう)センチ以下の世界──〝プランクスケール〟と呼ばれる概念がある。これはな、素粒子よりもはるかに小さい世界で、物理上では存在しない、仮定の上でのみの存在なのさ。けどな、ここには人の無意識や虚数領域、わたしたちのいる形と質量を持った実数領域を明在系とした場合の暗在系に位置する世界なんだ」
「よくわかりません」ハッカは唇を尖らせた。