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山本ペチカ
山本ペチカ
novelistID. 37533
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ウロボロスの脳内麻薬 第五章 『懺悔ホストクラブ祈り屋』

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「──?」
 一瞬、目の前を白い稲妻のような何かが過ぎった。
 ザ、ザザザ。
 砂嵐?
 視界の端々に灰色のノイズが散りばめられる。
 頭が痛い。
 苦しくなって、ハッカはベスパの座席シートにしなだれかかった。
『……ッカ、クン』
 ノイズに紛れて、人の声が、聞こえてきた。
 咄嗟に反応したハッカは、顔をいきおいよく上げた。
「うおっ、と! ダイジョブかい麦ちゃん? 顔色真っ青じゃん」
 心配そうに見おろす永久の顔が、そこにはあった。
「熱はないよな」
 永久の手が前髪を掻き分けて、額と額とを出逢わせた。
「う~ん、子供の平熱と比べてもいまいちわかんないな~。ま、いいか」
 一人で納得した永久はちょうど祭壇から降りてきた唐鍔牧師に駆け寄ると、彼女の耳にそっと囁きを入れる。すると唐鍔牧師は中折れ(ソフト)帽の鍔で奥まった瞳でハッカに一瞥をくれた。そこでつうかあな出来事があったのか、永久は深々と腰を曲げお辞儀する。さすがは執事(かしずくもの)、腰に分度器が仕込まれているかのような綺麗な四五度の最敬礼だ。
「俺たちはもう上がりだって」
 永久が戻ってきて言った。
 まだ八時だ。ハッカはともかくとして、執事(ホスト)たちを束ねる執事長(ブラツクドツグ)の永久がこんなに早く仕事を上がってしまって大丈夫なのか?
「ダイジョブだよ。牧師(センセイ)もいるし、みんな子供じゃないんだし。それに俺なんて最近じゃお客取らせてもらえないんだ、バーカウンターにつっ立ってるだけ」
 そう言って永久はやんわりと微笑んだ。なぜだか少しだけ、苛立った心が楽になった。
「じゃあそうと決まればさっさと帰ろう」
 永久はハッカの手を取り教会の正面入口を抜けた。青銅の門を抜けて大通りに出る。風が温い夜だった。肌に纏わり付いて離れない、雨が降る前触れを予感させた。

 やはり雨は降った。ぽつぽつと降り始めたかと思うとあっという間の本降りになった。二人は急いでその建物へと入った。祈り屋と同様に旧い建物だった。赤煉瓦造りの六階立てで、教会から二ブロックしか離れていない場所にあった。ドアを開ければそこはエントランスになっていて、内装は木造だった。
 二人の足元のカーペットに出来た染みがみるみる広がっていく。
「はぁ、ったく。まさか俺たちを狙って降ったんじゃないよな。あっ、ちょっと」
「なに?」
 ハッカは永久の隣で頭を振り回して顔や髪についた水を周囲に撒き散らしていた。永久はそんなハッカを見かねてポケットから取り出した綺麗にアイロンがけされたハンカチで顔を拭いてやる。
 こそばゆくてくすぐったい。こんなことされたの初めてだ。照れ臭いけど、あまり厭な感じがしない。
しかしもし同じ世話焼きの儚なんかがやってきたとしたら、迷わず躊躇わず逡巡せず、容赦なく急所の太もも横に蹴りを入れている。
「ああ、もう大人しくしな」
 けれどやっぱり気恥ずかしい。
ハッカは煙たがって顔を動かす。
「そんなに嫌だってんならもう風呂だ!」
「うわっ」
 唐突に、永久はハッカを肩に担ぎ上げる。ハッカは手足をばたつかせて幼い抵抗を見せた。

「ふぃー、気持ちいー」
 本来は一人で利用する猫足バスタブも、まだ身体の小さい小学生と身長ののび切らない少年の二人ならなんとかいっしょに入ることができる。
 湯船一杯に浸したお湯の上に、取り外しのできないシャワーから水滴が落ちる度にいい音が響いた。
「ねえ、麦ちゃんも気持ちいいだろ?」
「知らないよ」
 まさか服を脱がされるだけじゃなく身体まで洗われるなんて。しかもあっちからこっちまで隅々、どこもかしこも綺麗にされてしまった。
 不機嫌なハッカは顔の半分を湯船に漬けてぶくぶくと空気を吹いている。
「何だよ、拗ねるなよ」
「別にスネてないし」
「そうかいそうかい」
 二人はバスタブの両端に背中をあずけて互いに足を向け合っていた。部屋は一面のタイル張りのシャワールーム。ただしトイレは別だった。
 この赤煉瓦の洋館は祈り屋の牧師館だ。元は昭和初期に建てられたホテルで、名を景観(オーバールツク)荘(ホテル)という。歴代のオーナーはなぜかことごとく変死しているらしく、繁華街の一頭地にあるにもかかわらず破格の物件として唐鍔牧師が買い取ったものだ。
 屋上には由来不明の屋外神社が建立されていて、オーナーの変死と何か関係あるのでは云々、危ないのでは云々、でも買っちゃったんだからしょうがない云々と、うにゃらうにゃらあって現在に至る。
 一連のチェーンメールにまつわる事件を経て、今ハッカはあの場に居合わせた祈り屋の牧師と執事に保護された。社宅で一人暮らしていたハッカは、次の日には身綺麗にしてこの牧師館に移り住むことになった。ほとんど強制連行に近い形だ。いつものハッカならそんなことにさしたる抵抗はない。あるいは誘拐犯にさえ素直についていっただろう。しかしハッカは祈り屋の二人を訝しんだ。猜疑と懐疑の念を二人に向けた。
ケータイクラッシャーと呼ばれ《ブレインジャック事件》の犯人と目されていた祈り屋の二人は未だ真実を話そうとはしないが、悪党ではないのはハッカにも容易に見て取れた。しかし、それでも信用し切れずにいた。理由はわからない。
 ハッカもうすべてを平等に、かけ値なしに受け止めることができなくなってしまっていた。
 それでも祈り屋の面々、特に永久は陰日向にハッカの面倒を篤く見た。現に今も風呂を上がれば厭がるハッカの身体を拭いてやり、二人でフルーツ牛乳を飲んでいる。そうして胃にもたれない程度の簡単な夜食(チヤーハン)を作って、食後に二人でテレビを三〇分だけいっしょに観た。まだ眠くないというハッカをよそに歯を磨かせ、あたえた一人部屋へ移動した。
 そこは外国映画の安ホテルの雰囲気そのままの極めて質素で物のない部屋だった。板張りの床には旧い絨毯が敷かれ、白い壁の一部は剥がれて赤い煉瓦が剥き出しになっていた。ハッカがいた社宅同様、生活感に乏しい。
「明日はお休みだから八時には起こしに行くから」
 そう言って灯りを消し部屋から出ようとしている時だった。
「──あ」
「うん?」
 ハッカは永久のシャツの裾をつかんだ。
まだ仕事の残っている永久は風呂に入った後もドレスシャツにスラックスといった出で立ちであった。
「あ……いや、その……」
 何も言えなくなった。身体だけが先に動いて、言葉が後を追って来ない。
ここでこの人を見送ってしまえば自分は独りになってしまう。そう思うと、眠れる気がしなかった。
だからと謂ってそんな内情を言葉にできるほど器用でないハッカは、やっぱり自分の気持ちにすら気づいていなかった。隔(かつ)靴(か)掻(そう)痒(よう)、それが無性にもどかしくて未知の感情が既知の感情を混乱させた。
「あ……ぅ」
ハッカは顔を伏せ、下唇を噛み締めた。
わかんないよ、どう言えばいいかなんて。
「よっと」
 ──へ?
 不意に、ハッカの身体を不可解な浮遊感が襲った。足が床から離れているのはもちろん、四肢、五躰そのものが宙へ浮いていた。
「え、あれ?」