ウロボロスの脳内麻薬 第四章 『虹蛇(ナギ)ノ杜(もり)』
ハッカは無意識の中でずっと待ち、探していた、透明で形のない自身の存在を定義してくれる他者を。そんなのいないと思いながら渇いてささくれ立つ心が堪らなく痛かった。特別なんて大層なものはいらない、永遠なんて形のないものもわらない。
「亜……鳥……」
ただ、誰かに理解されたかっただけ。何も言わなくても「わかってるよ」、そんな一言をかけてくれる人が欲しかった──ただそれだけ。
『わかってるよ』
「──!!」
『だから飛んで、私のところまで』
「飛、ぶ……?」
『鳥になるの──〝ヘルメスの鳥〟に』
ケーブルの束の海に沈んでいたハッカの身体が宙へと引き上げられ、上下の向きが逆に、下半身が上へ、上半身が下へとひっくり返る。それはまるで、
「落ちている」
地球ではなく、月の──亜鳥の重力に向かって落下している。
脚の先が月へ落着する瞬間、ハッカはそれが割ると思った、ガラスのように砕け散ると。しかしハッカの脚は何の抵抗もなく月をすり抜けた。
水、だった。
月の表面には水面(みなも)のような波紋が立ち、ハッカの全身はスルリと月の裏側へと抜け落ちた。
その先に広がっていたのは一面水しかない世界だった。水平線の曲線が内側にではなく外側へと走っている。月の裏側とはつまり、球体の内部を意味している。
水の中を虹色の魚が泳ぎ、上の空間には金色の胡蝶が舞っている。どちらも上下正しく。
ハッカは水面の上に呆然と立ち尽くしていた。
その少女は微笑みながら佇んでいた。
裸の上から赤色のチェスターコートとキャスケット帽を身にまとっただけの姿だった。
髪が濡れている。あごの先から水が滴り落ちる。
手に持っていたのは布の被さった鳥籠。
「亜鳥」
ハッカは水の上を一歩踏み出した。
二の足、次に踏み出されるはずの足が、止まる。
『やあ、間男みたいな立ち位置で悪いね』
ハッカと亜鳥の間に現れたのは、古めかしいブラウン管テレビ。そこには気味の悪い動物の着ぐるみマスコットが映っている。
「何、なのさ……あんたいったい、何なのさ!」
『ボクの名前はカレルレン。どこにでもいるごくごくあり触れたポップでキッチュなマスコットさ。じゃあ逆に訊くけど、キミは何者なんだい? ハッカくん』
ゆっくりと、名前を一音一音強調して問いかける。
「キミは────普通じゃない。
ボクではなく彼女に呼ばれ《虹蛇(ナギ)ノ杜(もり)》の最(さい)奥(おう)である斎(さい)宮(ぐう)にまで足を踏み入れてしまうのだから。
キミは普通じゃない。けれど特別(アルジヤーノン)でもない。
とても興味をそそられるよ。もう殺そうなんて思わない。そんなことしたらもったいないよ。トモダチになろう、なっ? だからデジタルドラッグを食べてよ。そうすればきっと何かが起こるはずなんだ。ボクはそれをぜひ観測したい!
さあ、ボクの友達(もの)になってよ!
さあ、ボクと一つになろうよ!』
興奮冷めやらぬカレルレンの後ろでひたひたと水面に波紋を打ち近づくものがあった。
「まだあなたはそんなことを言っているのね、カレルレン」
カレルレンの映るテレビの背後には濡れネズミの少女、亜鳥の姿があった。
『やあ亜鳥、久しぶりだね』カレルレンのテレビは一八〇度回転して亜鳥に向き合う。『そのコートと帽子、まだ持ってたんだ』
「ええ、これしか持っていないから。あなたが私を斎宮に閉じ込めた時にくれたまま」
『……ああ、ああ。そう……、だったね。もうずっとずっと昔のことだからすっかり忘れてたよ。きっとあれだよ、キミの醜悪な肉体を見たくないってんで眼の届かないようにしたんだね。いや、一二歳以下しか受けつけないボクには本当に目に毒だ…………ハァ』
「もう止めてよこんなこと」
『またそれかい、やれやれだよ。まさに眼の上のタンコブだ。だからここへはね、本当は来たくなんかなかったんだ。だいたいキミと逢うと一々決意がゆらぐんだ』
「だったら──」
『だったら何さ!? ボクの実験は日進月歩、間違いなく前へ進んでいる。こんなところでゆく道引いていられないよ』
「それでも──」
『それでもキミはボクを否定して邪魔して、そして諌めるんだね。
〝どうせ互いの身は錆び刀、切るに切られぬくされ縁〟……か。
じゃあもういいよ。キミ、もういらないから。消えていいから』
カレルレンがそう言うと、すかさずテレビの下からケーブルが亜鳥に向かってのびる。首に巻き付き水面に設置していた足が浮かび上がった。亜鳥は苦悶の表情を浮かべ首に絡むケーブルをつかむ。
『〝三千世界の鳥を殺し、主と朝寝がしてみたい〟今のボクには高杉晋作の気持ちがよくわかる。鳥ってピーチクパーチクいつでもどこでも喚いていて本当に嫌いなんだ。ウザいんだよ。せっかくセカイの果てで一番高い場所にお社を建てたっていうのにキミら鳥はその上を簡単に飛び越えてってしまう』
するともう一本、テレビの下からケーブルが現れる。先には歪な形の金属プラグがついていて、バチバチと雷火を迸らせている。
『ま、所詮肉体を失って久しいボクらの命なんてプライスレス──値段をつけられないものなんて結局は無価値も同義さ』
電影プラグのケーブルが亜鳥の胸に向かって空を切る。
当たった。
金属プラグは刃がジグザグのナイフじみていて、身体に突き刺さる。
交錯する雷光はまさにスパーク。
バシャリと、小さな身体が水面に落ちた。
肌は白く透き通り、その髪は灰色で木灰のようにサラサラしている。
倒れているのは少女ではなく少年。後頭部と首の間にカレルレンの放ったケーブルのプラグが刺さっている。
ハッカは選んだのだ。
ハッカにとって自分と他人の命は等価だった。自分をふくめたすべてが同価値で、それでいて無価値だからだ。
けれどカレルレンが亜鳥を襲う刹那、ハッカの中にあった観念の天秤は確かに傾いた。自分の方に、ではなく亜鳥の方へ。ハッカは自分にとって初めて〝特別〟を守った。自分が自分であるための〝特別〟を守るために……死んだ。
『バカだね~キミは。こいつはこの程度じゃ死なない化物なのに。そもそも死ぬわけがないんだ。この神社の神様の依り代──神体は彼女自身。
そして祀られている神様は永遠を象徴する〝身喰らう蛇(ウロボロス)〟。
……本当にバカだよ。最初からボクのトモダチになっていればよかったのに。そうすればアルジャーノンになれなくたってまだまともな死に方ができた。キミは脳みそだけじゃなく、身体そのものこっち側へ置き忘れてしまうハメになったんだ。
〝父よ(エリ)、父よ(エリ)、なぜわたしをお見捨てになったのですか(レマ・サバクタニ)〟──ていうヤツ?
主よ、今からそちらに一つの幼き魂があなたのもとへ召されます。ありがとう神様! おめでとうっ、わたし! ……なんつってな~。
あ~あ、テレビの中じゃ十字は切るどころか柏(かしわ)手(で)だって打てやしない──んぁ?』
一(ひと)、二(ふた)、三(み)、四(よ)、五(いつ)、六(む)
亜鳥はハッカのもとへ跪き、目蓋を閉じて抑揚のない声音で何かをつぶやいていた。
作品名:ウロボロスの脳内麻薬 第四章 『虹蛇(ナギ)ノ杜(もり)』 作家名:山本ペチカ