ウロボロスの脳内麻薬 第三章 『デジタルドラッグ』
その頃、ハッカはスクランブル交差点にいた。
ここで別れた少女、相(あい)沢(ざわ)真(ま)希(き)からケータイ交霊術(コツクリさん)のチェーンメールを直接譲ってもらうために。
時刻は日付けの境界をまたぎ、数時間前に訪れた時には地面を埋め尽くすほどいた黒山の人だかりは、もうずいぶんとまばらになっていた。ハッカはふらふらあたりを漂うような足取りで、自身が座っていたテナントビル前の階段までやって来る。
「……どこだよ」
勢いだけで飛び出してしまった手前、彼女が今どこにいるのかなど検討もつかない。
いや、一つだけ心当たりがある。
「エイヴィヒカイト」
話の途中で彼女の携帯電話に着信した〝仕事〟のメール。ライブハウス──〝エイヴィヒカイト〟。
相沢真希はメールの着信から一時間後の約束をしていた。その時間などとっくに過ぎてしまっている。情事(シゴト)すらももう終わっていることだろう。しかし今のハッカには他に彼女を探す手がかりがない。
携帯電話を取り出し、繁華街近辺の店の情報を検索する。
そうしてキーを叩いていた時だった。
ザ、ザザザ……。
不意に、液晶モニターにあるはずのない砂嵐(ホワイトノイズ)が起こる。
次にそれを打ち消したのは、チリーンという玲瓏かつ涼やかな鈴の音色。
液晶モニター上に、鳥居のマークがほんの一瞬だけ映る。その後は元通り。いつもの待受画面に戻っていた。
「何だったんだよ、いったい。んっ!?」
ハッカの頭の中でにわかに砂嵐(ホワイトノイズ)の荒む音が鳴り響いて来た。
パチパチと、ザザザと、ガンガンと、ギギギギと。
ハッカは目蓋を閉じて耳を塞ぎ、その場に俯きしゃがみ込んだ。
「……ぅるさい、うるさい!」
身体にある穴という穴をどんなに強く締めつけても、音は耳の後ろの方から頭の上全体で反響し合いハッカを苦しめた。
ザ、ザザザザ、す……、けて。
「ッ!」
ノイズに紛れて、人の声のような音が聴こえて来る。
「た、す、け、て?」
助けて、と。確かにそう聴こえる。
ハッカは立ち上がり、首を左右に振りながら聞こえて来る方角を探す。
「こっちかっ!」
そうして走り出す。
大通りを三ブロックほど進むと、今度はビルとビルの狭間にできた路地の奥から聞こえてくる。暗く明かりのない道の中で、唯一月だけが味方をしてくれる。
路地を抜けた先にあったのは、片側三車線の大型道路。
等間隔に設置された街灯が導く前方にあるのは、大きな倉庫と四階建て立体駐車場。
ハッカは敷地内へ入るため正門へと赴く。と、そこには本来部外者の立ち入りを制限するために立っていなければならない警備員が仰向けに倒れていた。
明らかに異様な光景。しかし今のハッカにそんな些末事に一々気を引きとめられている余裕はどこにもない。倒れている警備員を横目にすら入れず駆け込んだ。
「うるさい、ウルサイ、五月蝿い、煩い! くそ、何なんだよ、くそッ!!」
進めば進むほど、走れば走るほどに、ハッカの頭の雑音は強まりを増す。
脳細胞だの中枢神経だのがプスプスと煙を上げてショートしていくかのような錯覚に陥りながら考えていたのは〝頭痛が痛い〟〝危険が危ない〟などといった重複した言葉が互いに意味を打ち消しあった荒唐無稽な戯言ばかり。
高熱を出して寝込み、天井に押しつぶされそうになる幻覚。
頭で脈打つ血流が鼓膜を直に叩く実感。
最高にハイになってしまった仕様のない後悔。
興奮作用を及ぼすありとあらゆる脳内物質が〝超〟過剰分泌されている真実。
苦痛は感じた即座に快楽へ変換されていっている。もう後戻りはできない。できるわけがない。
そうして──、ハッカの内から沸き上がる不可解な衝動は、彼をその場所へと至らしめる。
ただただだだっ広い面積の駐車場。三階という中途半端な場所のせいか、停まってある自動車の数は微妙にまばら。故にその光景は過多に目立った。
黒服に身を包んだ得体の知れない怪しい二人組。
一人は小柄な背丈で子供の風付き。しかし長い前髪で片眼を隠したその相好からは冷厳さ、峻厳さが際立つ。
もう一人は派手なカラーシャツにネクタイ、それに漆黒のダークスーツを身に纏った縦に長い形振り。背中には長い三編みの御下げが揺れ、右腕を高く上へ突き出している。
その先には──、その腕の先には少女の胸倉がつかまれていた。
少女はの髪は真っ白い。ぐったりと項垂れていて、力なく黒服の人物の腕からぶら下がっている。
人形か何かのように……死体か何かのように。
どろり。
と、少女の眼球がコンクリートの床に落ちる。粘度の高い体液が、接地時の音を吸収する。
ハッカはその片眼をなくした少女にしかと見覚えがあった。
ハッカに話を聞かせるのをいつも楽しみにしていた少女。
ハッカを小さな牧師と形容した少女。
ハッカと数時間前、スクランブル交差点前で惜(せき)別(べつ)を告げてきた少女。
ハッカに、最後に自身の心の住所として名前とメールアドレスを記した紙切れを渡した少女。
──相沢真希。
彼女は死んでいる。死んでいた。
誰が殺した?
目の前の二人が殺した。
なぜ殺した?
わらない。
「もしもし、おい、わたしの声が聞こえるか? おい!」
長身の御下げした黒服が、携帯電話に向かって乱暴に話しかける。携帯電話。それは相沢真希が持っていたもの。彼氏とのツーショット画像が待受に設定されていたもの。
「もしもし! おい、おい!!」
「牧師(センセイ)、もう彼女は……」
隣の少年が少女を持ち上げる右腕に手をかける。
「Fuck up!!」
黒服は激昂に任せて携帯電話を握り締めた拳でコンクリート壁を殴りつける。その瞬間、轟音と噴煙があたりを包み、黒服が殴った場所には大きな穴が穿たれていた。
その後は、無音という音が、あたりに木霊(こだま)を響かせる。
携帯を、
「こわした」
人間とは思えない膂力をもって、
「こわした」
イコール、
「ケータイクラッシャー」
相沢真希はケータイクラッシャーによって殺された。抜け落ちた眼球は、夕方見たブレインジャックの変死体と同一だ。
つまりケータイクラッシャーこそが、
「ブレインジャックの……犯人」
そう口にして瞬刻、ハッカの持つ携帯電話が着信の音を告げる。拾った方ではなく、ハッカ自身の、彼の心の具象化ともいえる携帯電話の方が。
光るメールの着信ランプ。送り主は不明。わけのわからない、意味不明な記号の羅列のアドレスから来ている。sub──すなわちタイトルは、
「へびつかい座……、ホットライン」
ハッカの存在と異変に、黒服の二人が気付き振り向く。
携帯電話の液晶画面にホワイトノイズが発生する。そしてすぐに真っ暗になりあの赤い鳥居が浮かび上がる。
黒服の二人が鬼の形相で近づいてくる。
鈴の音が耳の奥から響いてくる、それこそ頭の中から。親指が勝手に動き出す、ハッカの意思とは関係なく。キーが光り、親指はそれに導かれる形で後を追い、液晶画面に打った文字が現れる。
ハッカと黒服たちとの相対距離──五メートル。歩いておよそ七、八歩。交わるまでの時間にすれば三秒もかからない。
事態はその三秒ですべてが決した。
作品名:ウロボロスの脳内麻薬 第三章 『デジタルドラッグ』 作家名:山本ペチカ