ウロボロスの脳内麻薬 第三章 『デジタルドラッグ』
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何とも他愛ないどこにでもあり触れたメールの着信履歴。けれどハッカの携帯電話には決してないもの。他者の想い(キモチ)が縦横無尽に駆け巡っている。ハッカにはそれがない。ハッカの携帯電話(ココロ)の中には何もない。箸にも棒にもかからない。ざるに水を流すような無意味さだけ。
「ちがう。ちがう。ちがう。ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちが────ッ!」
その時だった。忙(せわ)しなく動いていたハッカの親指がぱっとスイッチを切ったように静止した。
タイトルの初めに〝FW〟の二文字。すなわち転送を意味する二文字。ハッカはそれを見逃さなかった。
通常チェーンメールは2、3、4、5、と転送した回数に応じて数字が〝FW〟の横につくのが普通だ。が、しかしこのチェーンメールには、
「むげん?」
〝メビウスの輪〟──つまり無限を意味する〝∞〟の記号が、そこにはあった。
FW:∞。
その後に続くのがへびつかい座ホットラインというタイトル。
「電車の名前と……、おんなじだ」
《セカイの果て》を、海と山の間を延々とひた走るローカル線といっしょの名前だ。
売春(ウリ)をしていた少女の言っていたことは嘘じゃない。自分が見たのは単なる夢じゃない。どちらも現実。どちらも真実。
ならば今のこの状況はいったい〝何〟実なのだろう?
少女から聞いた都市伝説《ケータイ交霊術(コツクリさん)》に《虹蛇(ナギ)ノ杜(もり)》。夢の中で乗った電車と同じ名前を持つチェーンメール。
そのすべてが夢の中《セカイの果て》に帰結している。
だとするとあの少女、《セカイの果て》で出逢ったセーラー服にチェスターコートを羽織ったあの少女。亜鳥と名乗ったあの少女は、いったい何者だったのか。
あの幻とも思える一時が、まっさらなハッカの記憶のアルバムに名状しがたい付箋を落とす。
わらない。
わらないこそ、また逢って確かめたい。
ハッカは再び《ケータイ交霊術(コツクリさん)》を試みようと強く握りしめる。が、すぐにその力は抜け、不自然に柳眉を歪めた。
テキスト、本文に何も書かれていないのだ。
空メール。
特にファイルが添付されているわけでもない。《ケータイ交霊術(コツクリさん)》は何か特別なアプリを起動して行うものではないということなのか。
送り主のアドレスを見る。
〝*&$V¾¿±凥
咄嗟、少女は紅く小さい粒のような何かを自身の口に放った。
カリッ、という奥歯で噛み砕く音。
刹那、少女の頭髪が一瞬だけ白く脱色する。そして少女を中心とした周囲の空間が灰色に染まり、パチパチとノイズが走る。少年は動かない。色を失い灰色となり、一時停止したモノクロ映画のワンシーンとして空間に溶け込んでしまった。
少女はそんな少年を尻目に大通りへ走り出す。すでに髪は元の茶髪に戻っていた。
「お嬢さん、お待ちなさい、ちょっと、落し物♪」
大通りへの出口手前、まだ後ろにいるはずの黒服が大通りの方から躍り出て来る。その口元は少女を嘲弄するように歪んだ微笑を浮かべている。
少女はすぐさま立ち止まり踵を返す。少年はまだ動きを止めたまま。その横を走り抜ける。
黒服は焦って追うわけでもなく、緩慢な足取りで少年の傍らまで行くと、彼の眼前でパチンと大きく指を鳴らした。
「は──!」
金縛りから解き放たれた少年は目の前の黒服を仰ぎ見た。
「完全に知覚と認識を喰われていたぞ、永(なが)久(ひさ)。ヒルベルトとの接続を切ってたな?」
「すみません、完全に自分の過(か)怠(たい)です」
少年は恭しく深々と頭(こうべ)を垂れる。
「何、この先はもう一本道だ。どこに出るかも確認済みよ」
† † †
黒服たちから逃げる少女は繁華街の路地裏を抜け、開けた場所に出ていた。そこからはもう街の明かりはずいぶんと遠くなっていた。
人気はない。片側三車線の大型道路と街灯が延々と続いている。
そこにある主だった建物は、大型の仕分け倉庫と、それに併設された立体駐車施設のみだった。
少女は身を隠すためそこへ足を踏み入れる、トラックが出入りする正門から。当然警備員が二四時間交代で眼を光らせていたが、そんなものは少女の前ではカカシも同義だ。誰の眼にも止まることなく、少女は一般車両がひしめき合う立体駐車場の三階片すみに身をひそめた。
「…………」
静かだった。
隣の倉庫では機械の駆動音が遠雷のように周囲に響いてはいたが、その音のみ、ということは他に何もない証。
──ッン。
寂寞とした静謐さの中で、少女は聞き覚えのある音と再会する。
カツン、カツン。
硬く乾いた革靴の足音。
「来てる」
確実に。
すぐそこまで。
少女は目蓋を閉じ、下唇を強く噛み締める。
そして隠れていた車の影から飛び出した。
飛び出した先には二つの影が。豪(ごう)放(ほう)磊(らい)落(らく)とした黒服に、恭(きよう)謹(きん)かつ雅(が)馴(じゆん)とした少年の双影。
「ほう、自分を傷付ける他人から逃げ、自身を取り巻く環境から逃げ、果ては己が生きる現実からも逃げようとしているアルジャーノンが、まさか正面から出迎えてくれるとは。
いい気合じゃないのさ。嫌いじゃないよ、わたしはそういうの」
「くっ!!」
三味線を弾く調子で嘯く黒服に、少女の憤りが爆発する。
「バカにッ──」
右腕を前へ突き出す。すると人差し指の先に、小さく紅い宝石(ルビー)のような物が光を示す。少女はそれをつまむと、自身の口へ放り込んだ。
「するな────!!」
切歯で紅いキャンディーを噛み砕いた刹那、少女の頭は白(はく)髪(はつ)化し、瞳の色が緑色に転化する。
すると少女の背後の影が消え、代わりに青いブラウン管テレビが出現する。画面は砂嵐状態。
ブラウン管テレビの砂嵐(ホワイトノイズ)が球状に拡がり周囲の空間を灰色に侵食し、黒服と少年に襲いかかる。ノイズの空間が身体を包む瞬間、少年は痙攣するようにわずかに身じろぎするも、先ほどとは違い色を失わずにいる。黒服に至っては顔色一つ変える気配がない。
「デジタルドラッグを摂取し続け、自分自身をふくめたすべての現実を否定・拒絶した存在──」少年は息苦しそうに呼吸を荒らげる。「アルジャーノン」
テレビ画面上の砂嵐が消え、そこに一つずつ文字が映し出される。
『鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれ欲するものは、一つの世界を破壊せねばならない』
「質量を持った感情の純粋な拒絶意思が顔にバチバチ当たって来やがる。なるほど、こいつは面倒だ。こいつは少々、骨が折れそうだ」
黒服はソフト帽の鍔を上へ傾け顔を出し、爛々と碧眼を輝かせる少女を正視する。その顔立ちは、女性の面差しだった。
† † †
作品名:ウロボロスの脳内麻薬 第三章 『デジタルドラッグ』 作家名:山本ペチカ