ウロボロスの脳内麻薬 第二章 『ケータイ交霊術』1
「本当に、ミルクだけでいいの?」
「え?」
「だってミルクを入れただけのカフェラテなんておいしくないよ。砂糖が入ってなきゃ、甘くなきゃコーヒーぎゅ……カフェラテなんて言わないもん」
それを聞いた少女は、きょとんと脱力して顔の筋肉を弛緩させると、急に破顔しけらけらと笑い始めた。
「あっははははははは、そりゃそうだわ! 甘くないコーヒー牛乳(カフエラテ)なんてコーヒー牛乳(カフエラテ)じゃないよ! あはははは、おっかしい!」
「ぼく、そんなに変なこと言った?」
「いや、全然、全然! ただネコくんも子供なんだな、てさ。カワイイこと言うなってさ。そんな当たり前のことが、今になってはじめてわかって──」少女は笑い過ぎて出た涙を拭った。「それがおもしろくってたまんないんだよ。今のアタシには、さ」
「ふぅん、変なの」
「ま、実際アタシ自身、虹蛇ノ杜もケータイ交霊術(コツクリさん)も、信じちゃいないんだけどね」
「なにそれ。じゃあさっきまでのは何だったのさ」
「ん?」
あごに人差し指を立てて考える素振りを見せると、
「あんなの、半分はアタシの考えたただの作り話。最後にネコくんとお話するのに、いい話題が見つからなかったから……それだけのハナシだよ」
そう言って打ち笑んだ。
「〝最後に〟ってどういうこと?」
「実はさネコくん、アタシこの街を出ようかと思ってるんだ」
どこかのどをつまらせる調子の言葉。
「そうなの。彼氏と?」
「うぅん、一人で」
「へぇ、意外。いつもかならず彼氏(オトコ)の話するから。じゃあ、別れるの?」
少女は少し困った表情を浮かべると、静かに首肯した。
「赤ちゃんがいるんだ。アタシん中に。ぶっちゃけカレシの子なのか客の子なのかもわかんないんだけどね。けどそれがわかったら、なんか今までのアタシなんかどうでもよくなった。消してしまいたいとさえ思った。ここにいちゃいけないって……思った。だからこの街を出てくの」
はにかむようにして笑った。辛さを隠すために、上から泥を塗りたくった痛々しいまでに歪な笑顔。けれどそんな顔を見ても、ハッカは眉一つ動かさなかった。
「それでね、誰もアタシのことを知らない新しい街で、子供といっしょに新しく人生をやり直すの。そうだな、そしたらアタシ、日曜は小さな教会に通うよ。へたっぴな讃美歌うたってさ、今まで一度もしたこともない奉仕(ボランテイア)して。
あ、そういうのってなんかまるで昔のアメリカのドラマになかったけ? ねぇ知らない、ネコくん」
笑いながら涙をためたその眼は、もうほとんど、開いてはいなかった。
「……知らない。海外ドラマとか、キョーミないし」
一息間をあけて、素っ気なく返事をするハッカ。その声はまるでしぼんだ風船。覇気もなければ生気もない。
「ぅん、言うと思った。それでこそネコくんだよね。そんなキミだから、アタシも懺悔したくなっちゃうんだもん。そこに同情や憐れみがあっちゃいけないんだよ──キミの場合。
────よしッ」
涙が今にも溢れかるその瞬間、彼女は両頬に手の平を叩き付けた。
「後悔、および懺悔終了! アタシ、きっと誰もがふり向く女になってやるんだから!」
そうしてまた笑った。今度のそれは凝(しこ)りも淀(よど)みもない、青空みたいに澄み切っていた。雨雲はどうやら、降る前に霧散したらしい。
「じゃ、そろそろ約束の時間だから、もう行くね。この街を出るにしても子供を産むにしてもお金、必要じゃない?」
ハッカは言葉もなければ頷くこともなく、ただ瞳だけで呼応する。
二人の去りしなはいつもこう。彼女の方からやって来て、独白めいた話を聞いて、帰りも向こうの方から一方的に去っていく。
だからこんなこと自体、初めからあってないようなもの。酔っ払いが人形やポストに語りかけるのとなんら変わらない。意味もなければ価値もない、浮世の片隅。
それでも──、
「アタシはもうここにはもうこないけど、ネコくんはできるなら……気が向いた時でいいからここにいてアタシみたいなヤツの話を聞いてあげて。知らないかもだけど、売春(ウリ)やってる娘のあいだじゃ〝チビッ子セラピスト〟とか、〝ちっちゃな牧師サマ〟なんてよばれてるんだよ。キミは」
そう言うと、彼女はハッカの頭を撫でた。野良猫を可愛がるように。家に持って帰ることも、エサをあげることもできないけれど、せめて精一杯のキモチで慈しむように。
「あっ、最後にこれ、わたしてもいい?」
彼女はハッカに一枚のメモ用紙の切れ端をさし出した。
「なに、これ?」
「アタシの〝心の住所〟、かな。もしよかったらたずねてみて、たぶん今のところアタシの居場所は、そこしかないから」
今までお互い打ち明けたことのなかった名前とメールアドレスが、そこにはあった。
「じゃ、バイバイ」
彼女は人ごみに消える。なんの痕跡も残さず、誰の気にも留められぬまま、どこかへ消えてゆく。
少年(ネコ)はそれを静かに見送った。
† † †
三〇分後。ハッカの足は繁華街から遠ざかっていた。
夜はますます深まってゆくが、それでもまだ日付が変わるには充分に余裕がある。普段のハッカなら、日付を跨いで街をうろつくのもざらだった。しかし今夜は様子が違う。急ぐような足取りで家路を進んでいる。
さっきの少女の話が堪えたのか──いや、そんなはずはない。あの程度の内容、ハッカからすれば日常茶飯事のはず。ハッカに話しかけてくる人間の中には、今しがた親を刺してきたという少女もいた。それに比べれば、今夜の懺悔などどれだけ耳に優しいことか。
不意に、後ろから静かなモーター音を響かせた路面電車(ライトレール)が横切って往く。車窓から溢れでた照明がハッカの横顔を照らした。
帰りの早い今夜は、路面電車(ライトレール)を使わず自身の足で帰ると決めた。それでも家へは今いるオフィス街から三〇分は優にかかる。
ハッカの歩みに合わせて、首からぶらさがった社宅の鍵が小さく弾む。ハッカにとって、家など風呂に入って寝るだけの止まり木程度の場所に過ぎない。帰りを温かく迎えてくれる家族もいなかったし、ハッカ自身そんなものはさして求めてもいない。
母と妹をイタリアへ連れて行った父が、唯一ハッカのためだけに残した部屋。家族(ナカミ)を知らない家(イレモノ)。
そんな場所に毎日帰ることすら馬鹿らしいと、ハッカは常々考えていた。故に時間を潰す。学校で、父親のオフィスで、繁華街で、自分の知りうるすべての生活圏内で持てあました時間という時間を、人生という人生を──ただいたずらに消費する。
ハッカは革紐の先端にくくられた鍵を握り締めた。この金属片の先には自分の居場所はない。いや、ハッカが居場所と呼ぶべき所は、この街のどこにも存在(あり)はしない。
これまでファウンデーションの至る所へ赴き、そこで他者とのつながりを作ってきた。しかし、そこで感じられた想い──真に得られたものなど果たしてあったろうか?
結局どこも変わらない。自分に関心のない親の心裡も許容でき、どんなに重い内面を背負った他者も受け入れられていたというのに、ハッカ自身は決して理解されない。
作品名:ウロボロスの脳内麻薬 第二章 『ケータイ交霊術』1 作家名:山本ペチカ