金色のうさぎ
さっきから僕は自分が歩いてる街がどこなのかが分からない。
今が昼なのか、夜なのかもはっきりとしない。薄曇りの暗い道路を僕は一人で歩いている。道路の両側には僕を見下ろすようにそそり立つような高層ビル群。僕はそのビル達に見張られながら、延々と続く道路脇の歩道を一人ゆっくりと歩いている。
どこへ向かうつもりなのか、どこから来たのか。
何も思い出せない。とにかく先ほどから一人前へ前へと進んでいるだけだ。
この道はどこへ続くのだろう。先へと行ってはいけないような、それでいて行かなくてはいけないような妙な焦りがある。とにかく立ち止まってはいけない。
立ち止まれば、捕まってしまう。
「何に?」
頭に突然沸いてきた言葉に問いかけるようにして言葉が口をついた。だけど、答えは返ってこない。何も分からない。ただ前へ前へと進むだけだ。
ふと、目をむけた道路との境の街路樹の下、ぐったりと身を横たえた女性がいた。
驚いて駆け寄る。女性は今にも行き絶え絶えの様子で地面に顔をつけている。
「大丈夫ですか?」
僕が女性に手を伸ばそうとした瞬間、それは僕の後ろに現れた。
「手を出しては駄目ですよ。その人を助ける代わりにあなたが連れて行かれてしまう」
声に驚いて振り向くとそこにいたのは小さなうさぎ。金色に輝くうさぎ。
それはぴょんぴょんと跳ねて、僕と女性の間に割って入って来て僕を見上げた。
「さぁ、先を急ぎましょう」
「でも……」
「どうしても彼女を助けたいというのなら止めはしませんが、その代わり、あなたは向こう側ですからね」
鼻をひくひくとさせて、うさぎは冷淡な調子でそういう。
向こう側?
その響きに恐ろしくなって、女性へと伸ばしかけた手を引っ込める。うさぎが軽く頷く。そして、僕を誘うように歩道の先へと跳んでいく。その後を僕は追って、再び歩き出した。
「ねぇ、どういうこと?」
うさぎの後を追いながら、僕は聞いた。うさぎは暗い道でその身をぴかぴかと光らせている。小さくぴかぴか光るうさぎ。まるで道しるべのようだと思う。
「自分以外に構っちゃ駄目ですよ。自分の身を滅ぼす事になります。皆、自分の事は自分で助けないと」
「あの女性も自分で自分を助けろと?」
「まぁ、あの人は助からないでしょうね。あなたはラッキーですよ。一人でこの道を歩けている。そのラッキーを棒にふらないように真っ直ぐ歩いてくださいね」
うさぎはうさぎらしく跳んで跳ねながら、僕の顔をちらりと振り返った。
「余計なものに目を奪われない事。見ようと思ったら色んなものが見えますが、全部、無視して歩く事です」
言われて辺りを眺めると、先ほどまではほとんど人気のなかった道に幾人もの人の姿が見て取れた。同時に道路にも何台もの自動車が走りはじめる。自動車達は乱暴にスピードを上げていて、至るところで事故を起こしている。横たわる累々たる死体。
「何なんだ、これ」
「ほら、見ちゃ駄目ですってば」
歩道を歩いている人に車が突っ込んでいく。逃げられずに跳ねられる人、車の下敷きになる人。暴走車から逃げ出して、歩道脇の裂け目に落ちていく人。
裂け目?
気づけば、いつの間にかに僕が歩いている歩道とビル群の間の地面が大きく割れて、真っ暗な奈落が大きく口を開けていた。
「見てしまうから恐ろしいだけです。あなたは真っ直ぐ歩いているんだから大丈夫ですよ」
僕を元気づけるようにうさぎは言って、ぴょんぴょんと跳んでいく。
何なんだ、ここは。僕はどうしてこんな所にいるんだろう。
膝が震える。裂け目の奥から人の叫び声が聞こえてくる。その声に引きづられるようにしてそちらへと歩んでいってしまいそうで恐ろしい。冷や汗が出てくる。
「ほら、言わんこっちゃない。さっきまでは見えてなかったのに」
「君が変なことを言うからだろ」
「私は見るなって言ったんですよ」
ひときわ大きな叫び声が上がって、僕は思わずそちらへと顔を向けた。裂けた地面の際にかろうじて小さな手が見えた。
「子どもだっ!」
「あっ、ちょっと!」
うさぎが制止する声にも構わず僕は裂け目へと駆け寄った。膝をついて覗き込むと二歳ぐらいの幼い男の子が奈落へと今、まさに落ちようとしているところだった。その子は落ちまいと必死に両手で裂け目の縁を掴んでいた。
「た、大変だっ! 今、助けるからね」
僕は男の子に手を伸ばして、その手を掴もうとした。慌てたようにうさぎが僕の手に飛びついた。
「駄目だって言ってるでしょ! この子の命と引き換えに自分の命を失くす気ですか!?」
「で、でも、こんな小さな子が!」
「小さい、大きいは関係ないんです。助かる人は助かるし、助からない人は助からない。ここの摂理ですよ」
「で、でもっ!」
僕達が言い合いをしているうちにも男の子の手は力を失っていき、今にも落ちてしまいそうだ。
「ほらっ、落ちちゃうよっ!」
「だから、しょうがないんですってば! ほら、早く戻りましょう。もうすぐあなたの番ですよ」
うさぎがそう口にした途端、重たく垂れていた黒い雲に穴が開いて、金色の光が地上へと差した。
「ほら、行きましょう」
「で、でもっ!」
「早くっ!」
うさぎが怒鳴った途端、男の子の片手が地面から離れた。
「あっ!」
男の子は泣きながら、片腕でぶらさっている。今にも下へと落ちてしまいそうだ。
「こんな小さな子を見捨てていけないよ!」
「じゃあ、その子の代わりに自分が死んでもいいって言うんですね」
「そ、それは……」
男の子の目が僕を見ている。真っ黒に濡れた目で僕は助けを求められている。
どうしたらいい? 僕はどうするんだ?
「ほら、早くっ!」
「待ってくれよっ! 待って!」
僕はうさぎに怒鳴り返して、頭を抱えて地面にうずくまった。
駄目だ、僕には決められない。決められない!
「おいっ、お前さん。あの光はあんたのだろ? 使わないのか? 使わないなら、わしが使っちまってもいいかい?」
頭上から声がして、僕は顔を上げた。背の高い老人が一人。僕とうさぎを見下ろしていた。
「使います! 駄目ですよ! あれはこの人のなんですから」
「そうか。残念だな。わしのはいつ来るんだろうな」
うさぎに言われて、老人はのんびりした様子で地面に差し込む光を見つめた。子どもの悲痛な泣き声がこんなにも辺りに響いているのに……。もしかして、老人には聞こえていないのだろうか。
「ほら、行きますよ!」
「駄目だっ、行けないよっ!」
「いいからっ、ほらっ!」
「行った方がいい。こんなに早く帰れるのは運がいいんだから」
うさぎと共に僕を諭すように見つめる老人の瞳。老いて濁って、それでもなお、何かを湛える茶色い瞳。
「でも、あの子が……」
「ん? ああ、子どもか。なんだ、そんな事で行くかどうか悩んでいるのか」
「そ、そんな事って!」
「悲しいがよくある事だよ。何度も見てきた。ここにいる限り、何回だって目にする光景だ」
老人はそういうと僕の襟首を掴んで、ひょいっと僕を持ち上げた。先ほどから嫌に背の高い老人だと思ってはいたが、いつの間にか老人はそびえたつビルほどの大きさになっていて、僕をつまみ上げ、割れた雲の間へと押し込んだ。
今が昼なのか、夜なのかもはっきりとしない。薄曇りの暗い道路を僕は一人で歩いている。道路の両側には僕を見下ろすようにそそり立つような高層ビル群。僕はそのビル達に見張られながら、延々と続く道路脇の歩道を一人ゆっくりと歩いている。
どこへ向かうつもりなのか、どこから来たのか。
何も思い出せない。とにかく先ほどから一人前へ前へと進んでいるだけだ。
この道はどこへ続くのだろう。先へと行ってはいけないような、それでいて行かなくてはいけないような妙な焦りがある。とにかく立ち止まってはいけない。
立ち止まれば、捕まってしまう。
「何に?」
頭に突然沸いてきた言葉に問いかけるようにして言葉が口をついた。だけど、答えは返ってこない。何も分からない。ただ前へ前へと進むだけだ。
ふと、目をむけた道路との境の街路樹の下、ぐったりと身を横たえた女性がいた。
驚いて駆け寄る。女性は今にも行き絶え絶えの様子で地面に顔をつけている。
「大丈夫ですか?」
僕が女性に手を伸ばそうとした瞬間、それは僕の後ろに現れた。
「手を出しては駄目ですよ。その人を助ける代わりにあなたが連れて行かれてしまう」
声に驚いて振り向くとそこにいたのは小さなうさぎ。金色に輝くうさぎ。
それはぴょんぴょんと跳ねて、僕と女性の間に割って入って来て僕を見上げた。
「さぁ、先を急ぎましょう」
「でも……」
「どうしても彼女を助けたいというのなら止めはしませんが、その代わり、あなたは向こう側ですからね」
鼻をひくひくとさせて、うさぎは冷淡な調子でそういう。
向こう側?
その響きに恐ろしくなって、女性へと伸ばしかけた手を引っ込める。うさぎが軽く頷く。そして、僕を誘うように歩道の先へと跳んでいく。その後を僕は追って、再び歩き出した。
「ねぇ、どういうこと?」
うさぎの後を追いながら、僕は聞いた。うさぎは暗い道でその身をぴかぴかと光らせている。小さくぴかぴか光るうさぎ。まるで道しるべのようだと思う。
「自分以外に構っちゃ駄目ですよ。自分の身を滅ぼす事になります。皆、自分の事は自分で助けないと」
「あの女性も自分で自分を助けろと?」
「まぁ、あの人は助からないでしょうね。あなたはラッキーですよ。一人でこの道を歩けている。そのラッキーを棒にふらないように真っ直ぐ歩いてくださいね」
うさぎはうさぎらしく跳んで跳ねながら、僕の顔をちらりと振り返った。
「余計なものに目を奪われない事。見ようと思ったら色んなものが見えますが、全部、無視して歩く事です」
言われて辺りを眺めると、先ほどまではほとんど人気のなかった道に幾人もの人の姿が見て取れた。同時に道路にも何台もの自動車が走りはじめる。自動車達は乱暴にスピードを上げていて、至るところで事故を起こしている。横たわる累々たる死体。
「何なんだ、これ」
「ほら、見ちゃ駄目ですってば」
歩道を歩いている人に車が突っ込んでいく。逃げられずに跳ねられる人、車の下敷きになる人。暴走車から逃げ出して、歩道脇の裂け目に落ちていく人。
裂け目?
気づけば、いつの間にかに僕が歩いている歩道とビル群の間の地面が大きく割れて、真っ暗な奈落が大きく口を開けていた。
「見てしまうから恐ろしいだけです。あなたは真っ直ぐ歩いているんだから大丈夫ですよ」
僕を元気づけるようにうさぎは言って、ぴょんぴょんと跳んでいく。
何なんだ、ここは。僕はどうしてこんな所にいるんだろう。
膝が震える。裂け目の奥から人の叫び声が聞こえてくる。その声に引きづられるようにしてそちらへと歩んでいってしまいそうで恐ろしい。冷や汗が出てくる。
「ほら、言わんこっちゃない。さっきまでは見えてなかったのに」
「君が変なことを言うからだろ」
「私は見るなって言ったんですよ」
ひときわ大きな叫び声が上がって、僕は思わずそちらへと顔を向けた。裂けた地面の際にかろうじて小さな手が見えた。
「子どもだっ!」
「あっ、ちょっと!」
うさぎが制止する声にも構わず僕は裂け目へと駆け寄った。膝をついて覗き込むと二歳ぐらいの幼い男の子が奈落へと今、まさに落ちようとしているところだった。その子は落ちまいと必死に両手で裂け目の縁を掴んでいた。
「た、大変だっ! 今、助けるからね」
僕は男の子に手を伸ばして、その手を掴もうとした。慌てたようにうさぎが僕の手に飛びついた。
「駄目だって言ってるでしょ! この子の命と引き換えに自分の命を失くす気ですか!?」
「で、でも、こんな小さな子が!」
「小さい、大きいは関係ないんです。助かる人は助かるし、助からない人は助からない。ここの摂理ですよ」
「で、でもっ!」
僕達が言い合いをしているうちにも男の子の手は力を失っていき、今にも落ちてしまいそうだ。
「ほらっ、落ちちゃうよっ!」
「だから、しょうがないんですってば! ほら、早く戻りましょう。もうすぐあなたの番ですよ」
うさぎがそう口にした途端、重たく垂れていた黒い雲に穴が開いて、金色の光が地上へと差した。
「ほら、行きましょう」
「で、でもっ!」
「早くっ!」
うさぎが怒鳴った途端、男の子の片手が地面から離れた。
「あっ!」
男の子は泣きながら、片腕でぶらさっている。今にも下へと落ちてしまいそうだ。
「こんな小さな子を見捨てていけないよ!」
「じゃあ、その子の代わりに自分が死んでもいいって言うんですね」
「そ、それは……」
男の子の目が僕を見ている。真っ黒に濡れた目で僕は助けを求められている。
どうしたらいい? 僕はどうするんだ?
「ほら、早くっ!」
「待ってくれよっ! 待って!」
僕はうさぎに怒鳴り返して、頭を抱えて地面にうずくまった。
駄目だ、僕には決められない。決められない!
「おいっ、お前さん。あの光はあんたのだろ? 使わないのか? 使わないなら、わしが使っちまってもいいかい?」
頭上から声がして、僕は顔を上げた。背の高い老人が一人。僕とうさぎを見下ろしていた。
「使います! 駄目ですよ! あれはこの人のなんですから」
「そうか。残念だな。わしのはいつ来るんだろうな」
うさぎに言われて、老人はのんびりした様子で地面に差し込む光を見つめた。子どもの悲痛な泣き声がこんなにも辺りに響いているのに……。もしかして、老人には聞こえていないのだろうか。
「ほら、行きますよ!」
「駄目だっ、行けないよっ!」
「いいからっ、ほらっ!」
「行った方がいい。こんなに早く帰れるのは運がいいんだから」
うさぎと共に僕を諭すように見つめる老人の瞳。老いて濁って、それでもなお、何かを湛える茶色い瞳。
「でも、あの子が……」
「ん? ああ、子どもか。なんだ、そんな事で行くかどうか悩んでいるのか」
「そ、そんな事って!」
「悲しいがよくある事だよ。何度も見てきた。ここにいる限り、何回だって目にする光景だ」
老人はそういうと僕の襟首を掴んで、ひょいっと僕を持ち上げた。先ほどから嫌に背の高い老人だと思ってはいたが、いつの間にか老人はそびえたつビルほどの大きさになっていて、僕をつまみ上げ、割れた雲の間へと押し込んだ。