私の好きな人
今日も彼は、仕事終わりに突然私の家に訪ねてきて、彼女の気持ちが分からないっと、私に愚痴り始めた。彼は今は会社の一つ上の先輩に叶わぬ恋心を抱いている。
キッチン前のダイニングテーブルの一席が星野くんのいつもの場所。彼はそこに座って、いつもダイニングテーブルにうつ伏せる。くしゃくしゃの黒髪のつむじをいつものように私は愛おしく眺める。
スーツが似合っておらず、スーツに着られている感のある彼も、もう少しで勤続七年目の社会人だ。でも、全然社会人に見えない。星野くんは会ったばかりの星野くんでいつまで経っても大学生のように見える。
「今日も仕事終わりに電話したんだ。電話してって言うから。そしたら、もう約束が入ってるからって断られた。どうして? それなら電話かけてなんていわないでくれればいいのに」
私は仕事終わりでまだ夕飯も取ってないという彼のために、キッチンに立って高菜チャーハンを作った。
彼が以前、「美味しい。このチャーハン、また作って」と私に言ってくれたおかげで、私の家の冷蔵庫には食べもしない高菜漬けが常備される事になった。そんな風に私の日常は彼の言葉で形づくられている。
別の女性の事を思いながら、その人への思いで苦しみながらも、こうして私の家を訪ねてきてくれる彼を、私は好きでしょうがない。彼の為なら何だって出来るっと思うのに、彼は私には何も望まない。だから、私のこの気持ちはいつも行き場を失って、空中でふらふらと揺れる。
「きっと、気分屋なんだよ。誰に対してもそうなんじゃない?」
「そうかな? そう思う?」
「多分ね。大丈夫、いつかちゃんと伝わるよ」
「だといいんだけど……もう疲れたよ」
憔悴した様子で私が作ったチャーハンを食べる彼が可愛くて、愛おしくて、私は「彼女」に私から彼を奪っていかないでくれてありがとうって、感謝をする。彼女の星野くんへの仕打ちはいつも酷いけど、そのおかげで星野くんはここにいてくれる。
「いつもごめんね」
彼が悪びれもせずにいつもの言葉を口にする。悪いと思っているのなら、こんな風に夜中になんて訪ねて来ないでよ! そういつも私は心の中で憤慨するのだが
「なんか、ようちゃんしかこんな風に頼れる人いないからさ」
彼がそんな風に続けるから、私の怒りはすぐに骨抜きになってしまう。
可愛い、可愛い、星野くん。
私は大学時代から八年間も彼の事がずっと好きで、彼だけを見て生きてきて、きっとこんな風に彼への思いを抱えたまま歳をとっていくんじゃないかと思っている。
友だちに言わせると星野くんはちっとも魅力的ではないらしい。背は低いし、臆病者だし、鈍感だし……でも、私にとっては彼のそんな欠点とされるところも全部含めて愛おしいのだ。
私の事なんてちっとも好きじゃなくて、私の思いに一ミリも気づいてくれない所でさえ愛おしい。そんな彼だからきっと私は八年間も片思いを続けている。
「ようちゃんは今、好きな奴とかいないの?」
星野くんのいつもの質問。私の気持ちなんて何にも知らないから、彼はこんな風に私の恋人関係にさらりと言及してくる。
「いないよ」
「ホントに? だって、前の彼と別れてもう三年だろ」
「うん。でも、いない」
「少しぐらい、いいって人はいるんじゃない?」
「いない」
「ようちゃんは理想が高そうだからな」
「そうかな?」
食事をしている星野くんの目の前に頬づえついて座って、星野くんの子どもみたいに真っ黒で少しくしゃくしゃした前髪を見ている。柔らかそうだな、触ってみたいなぁって思う。
何にも気づかずに私の前に無邪気に座っている星野くんって可愛いなぁって思っている。
「ようちゃんのタイプは背が高くって男っぽくって、ようちゃんを守ってあげられる奴だよね」
「何それ」
「だって、前の彼がそんな感じだったじゃん」
「先輩は好みのタイプじゃなかったのよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
「そうか」
私のタイプは星野くんだよ。
女の子みたいに繊細で傷つきやすくて優しくて、可愛い悪い女の子に騙されてはしくしくと泣いているような男の子なんだよ。
私の心の声は肝心な相手には全く届かない。
「さて、そろそろ終電だから帰るね。遅くまでごめんね」
ちょっとすっきりした顔をして星野くんが立ち上がる。私は胸が痛むのを感じながら、彼の荷物を手渡した。
「ちょっとは楽になった」
「うん。聞いてくれてありがとう」
「また、いつでもどうぞ」
「お邪魔しました」
玄関まで星野くんの背中についていく。
星野くんは私よりも少し背が低い。がっちりとした骨格の私と違って、星野くんは痩せていて線も細い。彼といると私の方がよっぽど男みたいだ。
「ようちゃん、髪切ったんだね」
玄関で靴を履きながら、星野くんが思い出したようそんな事を言い出した。
気がつかないかと思っていたのに……そう少し嬉しく思いながら、私は切ったばかりの髪に触れた。
「うん。先週ね」
「いいね、可愛いよ」
星野くんが笑う。
私のふわふわと浮いた恋心をがっちりとキャッチしこちらにずばりと投げ返して、彼は私の家から出て行った。