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新たな運命の始まり

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外は春先の光に満ちていた。先程までいた地下室が嘘のように目映かった。

 春の夜、タケルは公園でマリを待った。
 マリが来ると、二人は公園の中を歩いていた。
「待った?」
「いや、僕もついさっき来たばかりだから」
青白い電灯を浴びた公園は時折、擦れ違うくらいだけだった。
「静かね」
「その方がいい。それより寒くないかい?」
「寒くないわ。もう春だもの」
 確かに気持ちのよい夜であった。風が心持ち吹いていた。木枝をゆったりと揺らしていた。
「君の家族は?」
「香港にいるわ」
「何人?」
「両親、いれて五人ね」
「君だけ、日本に?」
 くすっとマリは笑った。
「何がおかしい?」
「だって警察の人みたい」
 タケルも妙におかしくて笑った。
「ところで、マリ、君の夢は?」
「ファッションデザイナーになりたいの?」
「デザイナーに? 学校にでも通っているのかい?」
「ええ、でも、そんなことはどうでもいいでしょう」
「どうして?」
「だって……夢をひとに語ると、夢が萎むような気がする」と口を噤んだ。
 タケルは立ち止まった。振り向き、マリを抱き締めた。そこはちょうど、高い木立に挟まされた、細い小道で夜ともなると、ひとは好んで通らなかった。
「ひとが見ている」
「こんなに暗ければ誰も何をしているか分からない」
「でも恥ずかしい」
「誰もこないさ」
「来るわよ」
 強引にタケルは接吻をした。そして、ゆっくりと乳房を服のうえから触った。
「駄目よ」
「マリ、君の全てが欲しいんだ」
「いつだって、あなたにあげているじゃないの」
 恥じらいながらも、徐々にタケルを迎えるような受け身のしぐさになった。
「今、欲しいんだ」
「わがままな人ね。でも、そんな意外なところが素敵よ」とマリはタケルの頬にキスをした。
 意外? そんなことはない。
「君の何もかもが恋しい」とマリの顔を引き寄せてじっと見つめた。
「私の何もかもが分かるの? 私には分からないけど……」
「僕には君の全てが見える」
 それはあながち嘘ではあるまい。現代のように科学万能の時代は、心というものを軽んじているが、心を見れば、見えないものも見える。タケルには、闇の中でも愛しいマリの顔の輪郭がはっきりと浮かび上がってきたのだ。
 女は幾つも顔を持っているという考えがある。恐らく真実であろう。しかし、タケルはマリの全ての顔を知っている自負していた。自分の掌の中にマリという存在がいるという思い込みが彼を幸せな気分にさせた。
「この続きはホテルで…お願い」と切ない声を出した。
 タケルはマリの手を引きラブホテルに入った。部屋に入るやいなや、すぐにマリを抱き締め、スカートの中に手を入れた。
「もっとシャイな人だと思っていたのに……」
「違う?」
「全然、違うわ、まるで別人のよう……」
「君は出会ってからさ、僕も変わった」
スカートの中から鮮やかな黄色の下着を引き釣り下ろした。
「もう、だめといっているのに……」とマリはしゃがんだ。
 マリを抱き抱えベッドに運び、その着衣を剥いだ。
「君に出会って初めて、人生というものの意味が分かった」とマリの頬にキスをした。
「人生にどんな意味があるというの?」
「人生の意味は物理学を論じることでもなく、また七面倒臭い顔をすることじゃないってことさ」
「私は難しい話をするのは嫌いじゃない、……だって、そうしなかったら、人は獣と一緒になるでしょう?」
 しかし、タケルはマリの話は聞いていなかった。乳房をその口に含んだ。やがて、マリはその心地好さに身を任せた。
「君は楽器だね」
 切なそうにマリは、「どうして……楽器なの?」
「身体に美しい声を出すからさ」

タケルが一人で家に居たら、突然、義理の父から電話してきた。会えないかというのである。無碍にも断ることも出来ないので、色々と理由をつけ断ろうとしたが、向こうの粘り腰に負け、渋々会う羽目になった。
「君は優秀な人間だから、分かっていると思うが」
「僕が優秀でないことはお父さんも分かっているのでしょう? 皮肉は言わないで下さい」
「どうでもいい、そんなことは、今日はそのことを話に来たのではない」
「何の話ですか?」
「和子が……」
「妻が何を?」
「君が浮気をしているというのだ。根拠はある。君のワイシャツに女物の香水の匂いがした。同じように口紅もついていた。銀行の通帳から、数十回に渡って計三百万引き出されていた。」
 かつて検事を彷彿させるように淡々と理詰めに語った。
「そんなことが何の証拠になるんです。僕はいつも満員電車に乗っているんですよ。口だって、香水だってつく、銀行から金を引き出したのは、買いたい本やら飲みにいったからですよ。それとも何ですか? 自分の金を自由に使う権利はないと言うんですか? 馬鹿げている!」と思わずタケルは絶句し、反論した。しかし、それは妙に芝居かかっていたために直ぐと嘘とばれた。
「もういい」と元検事の義父はタケルの話を遮った。
 タケルはこの義父が嫌いだった。結婚してからというもの、いつも、ああせい、こうせいと指示する。そのせいか、何か困ったことがあると、妻の和子は何よりも先に義父に相談する。
「どうして、わたしたちのことで口を挟むのです、それに妻は妄想に取りつかれている。もう、たくさんだ! 干渉しないでください!」
 それでも義父は話を止めなかった。
「女は魔物だ」と呟くと、タケルを見た。
 タケルは無視してタバコに火をつけた。そして、マリのことを思った。マリの天使のような、魂を揺さぶるような美しい声。美しい肉体の線。細く伸びた足の奥に、潤った蜜に湛えた熱帯の花弁……。
「いいかね、こんなわたしが過ごした検事として三十年の結論として、女遊びをするのはかまわない。しかし、溺れるな。女は情念だけで生きているように見えて、実は男よりも計算高い。女はいつも計算しながら演じているんだ」
「フェミニストとか、進歩的とか言われたあなたが、女性をそんなふうに見ていたなんて、驚きだな。きっと、世の女どもや進歩的といわれる人が聞いたらびっくりするだろうな。……あなたの検事生活はそんなものだったんですか?」
「軽蔑するかね?」
「いえ、軽蔑はしないが、だからといって尊敬もしないな」とタケルは皮肉めいた眼差しを向けた。しかし、義父は動じることなかった。
「僕が君のことを心配しているは、浮気そのものじゃない。君のような純粋なタイプがおかしやすい、女というものにのめり込むリスクについて心配しているんだ」
「これでも、かつては東西銀行のホープといわれる男ですよ、何で女ごときにのめりこまなきゃいけない?」
「それならいい、後は気づかれないようにしろ。和子は、あれで十分にお前を心配している」と義父は口をつぐんだ。
 タケルは返答しなかった。代わりに、心の中で決心をした。もっと深くマリを愛そうと。世の中には叩けば叩くほど悪くなるということもあるということを、元検事は知らなかった。

 タケルと妻とは夫婦関係が終わったのは随分前のことだ。妻は元々、セックスを好まなかった。セックスは子供を作るための儀式と割り切っていた。それゆえに娘が生まれると、別々の部屋に寝るようになった。
作品名:新たな運命の始まり 作家名:楡井英夫