新たな運命の始まり
『新たな運命の始まり』
秋の休日の午後である。
銀行員のキタムラ・タケルがショッピングのために愛人のマリを連れて一緒に歩いているときである。突然、タケルは足をとめて、「マリ、君は本当に俺を愛しているのか?」とたずねた。ふと疑念が起こったので聞いてみたのである。
「疑っているの?」とマリの瞳が突然、涙に濡れた。
人通りの激しい往来の出来事であったので、タケルは戸惑った。
「いや、そんなことはない……」
「私のことを疑うなら、もう会わないで」とタケルに強く訴え、その涙は止めどうもなく流れた。
人が見ているにも関わらず、マリは自分にかけられた疑い必死に晴らそうとした。その姿にタケルは心を打たれてしまった。しかし、それは単なるホーズに過ぎなかったのが、なぜかたくさんの恋の遍歴を重ねてきたタケルは見抜けなかった。
その夕方、高級ホテルにチェックインした。
部屋に入ると、マリはすぐにシャワーを浴びた。シャワーの後、マリは一糸まとわずにタケルの前に現われた。
「とても、綺麗だ」とタケルは言った。
「そんなじろじろと見ないでよ」
裸体のマリは上擦った声で懇願した。しかし、それがかえってタケルを興奮させた。タケルは抱きついた。
マリは先程から身を小刻みに震わせては、ときおり色っぽい溜息をついた。
「もう、だめ」と言うとマリは崩れた。素早くタケルが支えた。心持ち唇を開き、その瞳は閉じていた。
「君は花だ……僕のとても愛しい花だ」とマリの耳元で囁いた。
タケルはマリに出会った時に運命の出会いを予感した。その予感が現実だと思うに時間がかからなかった。今では夜毎、抱いている。
「君を愛したい」とタケルが言うと、その円らな瞳を開きうなずいた。
春の柔らかな夕日が床を照らしていた。そこにマリの身体をゆっくりと置いた。マリは光に浴びて輝いているようにタケルには思われた。それはまた小舟のようにも思えた。乗る者を待っている小舟……。
「冷たい……温めて」とマリはタケルの背中に手をやった。
足を持ち上げ、舟の中に身を鎮め、ひとつになった。マリは強くタケルの身体を抱き締めてきた。その顔は喜びに満ちているのか、苦痛で歪んでいるのか判別しにくった。
「痛いかい?」
「少しだけ……でも、とてもいい気持ち」と微笑した。
「君はとても温かい」
タケルの顔を撫でながら、「ねえ、キスして」
二人は、愛を、その手で、その唇で、その耳で、その舌で、その眼で、その耳で、いわば五感を通して貪った。
全てが終わったとき、もう宵闇が下りていた。
タケルは「良かったか?」とマリの耳元と呟いた。
「聞かないで」とタケルの唇を塞いだ。
「本当にわたしのことを愛してくれる?」
暗闇の中で、タケルはうなずいた。
「ずっと?」
「もちろんさ」と上ずった声で応えた。
「嘘は嫌よ」とマリが身体を重ねた。
それからである。
金曜の夜は必ずといっていいほどマリを訪ねる。マリのマンションは郊外にある。しゃれたマンションである。部屋に入ると、すぐにマリを抱こうとする。「わたしはそんな尻軽女じゃないわ」とか言って、マリと軽く拒むが、それが逆に、タケルの欲望に火を注ぐ。しかし、言葉とは裏腹に、マリはほとんど抵抗することもなくタケルを受け入れる。この日もそうだった。
タケルはマリが自分の瞳をずっと見ることに気づいた。いや、そんな気がしたのだ。何かを試すような、探るような、何か懇願するような、不思議な眼差しで、自分を見ている。何の為なのかは分からなかった。しかし、そんなことはどうでもよかった。タケルは、ただ、マリのみずみずしい肉体に触れ、真実の愛を確かめたかった。真実という愛など、どこにもないと思いながら、マリとの間にひょっとしたら、真実の愛があるのではないかと淡い期待を抱いていたのである。
タケルとマリの関係は冬が過ぎても続いた。浮気性のタケルがマリへの情熱は冷めるどころかますます高まっていった。
冬の終わり雨が続いたが、さすがに四月の声を聞くと、晴れる日が多くなった。
土曜日、タケルは久々、家で過ごした。感慨深げに庭の桜の木を眺めていた。既に花が綻び始めている。
「あなたが、庭を見ているなんて珍しい」と妻の和子が言った。
「そうかな」と連れない返事をし、少し慌てて妻の方を振り返った。
「何か心境の変化でもあったの?」
タケルは内心びっくりした。自分では上手く隠したつもりの心の奥を覗かれたのではないかと思ったからである。
「別に何もないさ」と平静を装った。
「そう、ならいいんですけど、何か心配事でもあるかと思って。ところであなたも一緒に生け花の展覧会に行かない?」
「いつだ?」
「今度の日曜よ」
タケルは焦った。それは、じっと妻が探るような眼で自分を見ていることに気づいたからである。何か気づいたのであろうか? マリとの逢瀬の痕跡は残したことはなかった。それだけの気配りをしてきたつもりである。犯罪者がその罪の痕跡を消すのに似て、何かしら後ろめたいものがあった。
和子は相変わらずじっと睨んでいる。乾いた眼をしているとタケルは思った。
「いいよ」とタケルは答えた。
和子は微笑んだ。
夕方になった。
今日一日はゆっくりと家で過ごすはずだった。ところが、昨日マリと会ったばかりなのに、また会いたいという欲望にかられた。その欲望に勝てず、マリの部屋の前まで来てしまい、結局、そのまま入った。
愛を確かめた後、マリが気まずそうに「母親が病気なの」と言った。その入院費用を貸して欲しいとも言った。三百万円という金額の多さに驚いたが、タケルに快諾した。
「きっと、返すから」とマリは恥ずかしげに言った。
「いいよ。金に困っているなら、いつでも言いなさい」
マリに頼られている。その事実だけで、タケルは無上の喜びであったのである。多少の額はタケルにとって痛くも痒くもなかった。タケルの家は旧家で資産がかなりあったのである。しかし、三百万は単なる始まりでしかなかった。
次の日、妻と二人、生け花の展覧会に行くことになっていたので、彼はマリの部屋に泊まらなかった。
日曜日、生け花の展示会は銀座の一角にある古いビルの地下の一室で開かれていた。和子の教え子の一人が開いたものである。
部屋全体が薄暗い中、花が生けられたところだけが、明るいスポットを浴びていて、艶やかな花を浮かび上がらせている。
タケルは本来、美とは無縁の存在である。というよりも、無関心であるといった方がよい。
ユリの大きな花弁を観ているうちに、タケルはふいにマリのことを想像してしまった。マリの美しい笑みを孕んだ顔が浮かび、その均整のとれた裸体が浮んだ。やがて、最も密かな潤いを含んだところさえ想像してしまった。タケルは思わず眩暈を感じた。その美しさといい、全体から匂うさまといい、花は余りにもマリに似過ぎていた。
「どうしたの?」と和子が声をかけた。
タケルが思わずよろけたからである。
「大丈夫だよ」と言って何でもなかったように振る舞った。
それにしても、何という色の氾濫であろう。何という香りの洪水であろう。タケルはそれに嘔吐さえ感じて、「先に出る」と言い残して、展示会を後にした。
秋の休日の午後である。
銀行員のキタムラ・タケルがショッピングのために愛人のマリを連れて一緒に歩いているときである。突然、タケルは足をとめて、「マリ、君は本当に俺を愛しているのか?」とたずねた。ふと疑念が起こったので聞いてみたのである。
「疑っているの?」とマリの瞳が突然、涙に濡れた。
人通りの激しい往来の出来事であったので、タケルは戸惑った。
「いや、そんなことはない……」
「私のことを疑うなら、もう会わないで」とタケルに強く訴え、その涙は止めどうもなく流れた。
人が見ているにも関わらず、マリは自分にかけられた疑い必死に晴らそうとした。その姿にタケルは心を打たれてしまった。しかし、それは単なるホーズに過ぎなかったのが、なぜかたくさんの恋の遍歴を重ねてきたタケルは見抜けなかった。
その夕方、高級ホテルにチェックインした。
部屋に入ると、マリはすぐにシャワーを浴びた。シャワーの後、マリは一糸まとわずにタケルの前に現われた。
「とても、綺麗だ」とタケルは言った。
「そんなじろじろと見ないでよ」
裸体のマリは上擦った声で懇願した。しかし、それがかえってタケルを興奮させた。タケルは抱きついた。
マリは先程から身を小刻みに震わせては、ときおり色っぽい溜息をついた。
「もう、だめ」と言うとマリは崩れた。素早くタケルが支えた。心持ち唇を開き、その瞳は閉じていた。
「君は花だ……僕のとても愛しい花だ」とマリの耳元で囁いた。
タケルはマリに出会った時に運命の出会いを予感した。その予感が現実だと思うに時間がかからなかった。今では夜毎、抱いている。
「君を愛したい」とタケルが言うと、その円らな瞳を開きうなずいた。
春の柔らかな夕日が床を照らしていた。そこにマリの身体をゆっくりと置いた。マリは光に浴びて輝いているようにタケルには思われた。それはまた小舟のようにも思えた。乗る者を待っている小舟……。
「冷たい……温めて」とマリはタケルの背中に手をやった。
足を持ち上げ、舟の中に身を鎮め、ひとつになった。マリは強くタケルの身体を抱き締めてきた。その顔は喜びに満ちているのか、苦痛で歪んでいるのか判別しにくった。
「痛いかい?」
「少しだけ……でも、とてもいい気持ち」と微笑した。
「君はとても温かい」
タケルの顔を撫でながら、「ねえ、キスして」
二人は、愛を、その手で、その唇で、その耳で、その舌で、その眼で、その耳で、いわば五感を通して貪った。
全てが終わったとき、もう宵闇が下りていた。
タケルは「良かったか?」とマリの耳元と呟いた。
「聞かないで」とタケルの唇を塞いだ。
「本当にわたしのことを愛してくれる?」
暗闇の中で、タケルはうなずいた。
「ずっと?」
「もちろんさ」と上ずった声で応えた。
「嘘は嫌よ」とマリが身体を重ねた。
それからである。
金曜の夜は必ずといっていいほどマリを訪ねる。マリのマンションは郊外にある。しゃれたマンションである。部屋に入ると、すぐにマリを抱こうとする。「わたしはそんな尻軽女じゃないわ」とか言って、マリと軽く拒むが、それが逆に、タケルの欲望に火を注ぐ。しかし、言葉とは裏腹に、マリはほとんど抵抗することもなくタケルを受け入れる。この日もそうだった。
タケルはマリが自分の瞳をずっと見ることに気づいた。いや、そんな気がしたのだ。何かを試すような、探るような、何か懇願するような、不思議な眼差しで、自分を見ている。何の為なのかは分からなかった。しかし、そんなことはどうでもよかった。タケルは、ただ、マリのみずみずしい肉体に触れ、真実の愛を確かめたかった。真実という愛など、どこにもないと思いながら、マリとの間にひょっとしたら、真実の愛があるのではないかと淡い期待を抱いていたのである。
タケルとマリの関係は冬が過ぎても続いた。浮気性のタケルがマリへの情熱は冷めるどころかますます高まっていった。
冬の終わり雨が続いたが、さすがに四月の声を聞くと、晴れる日が多くなった。
土曜日、タケルは久々、家で過ごした。感慨深げに庭の桜の木を眺めていた。既に花が綻び始めている。
「あなたが、庭を見ているなんて珍しい」と妻の和子が言った。
「そうかな」と連れない返事をし、少し慌てて妻の方を振り返った。
「何か心境の変化でもあったの?」
タケルは内心びっくりした。自分では上手く隠したつもりの心の奥を覗かれたのではないかと思ったからである。
「別に何もないさ」と平静を装った。
「そう、ならいいんですけど、何か心配事でもあるかと思って。ところであなたも一緒に生け花の展覧会に行かない?」
「いつだ?」
「今度の日曜よ」
タケルは焦った。それは、じっと妻が探るような眼で自分を見ていることに気づいたからである。何か気づいたのであろうか? マリとの逢瀬の痕跡は残したことはなかった。それだけの気配りをしてきたつもりである。犯罪者がその罪の痕跡を消すのに似て、何かしら後ろめたいものがあった。
和子は相変わらずじっと睨んでいる。乾いた眼をしているとタケルは思った。
「いいよ」とタケルは答えた。
和子は微笑んだ。
夕方になった。
今日一日はゆっくりと家で過ごすはずだった。ところが、昨日マリと会ったばかりなのに、また会いたいという欲望にかられた。その欲望に勝てず、マリの部屋の前まで来てしまい、結局、そのまま入った。
愛を確かめた後、マリが気まずそうに「母親が病気なの」と言った。その入院費用を貸して欲しいとも言った。三百万円という金額の多さに驚いたが、タケルに快諾した。
「きっと、返すから」とマリは恥ずかしげに言った。
「いいよ。金に困っているなら、いつでも言いなさい」
マリに頼られている。その事実だけで、タケルは無上の喜びであったのである。多少の額はタケルにとって痛くも痒くもなかった。タケルの家は旧家で資産がかなりあったのである。しかし、三百万は単なる始まりでしかなかった。
次の日、妻と二人、生け花の展覧会に行くことになっていたので、彼はマリの部屋に泊まらなかった。
日曜日、生け花の展示会は銀座の一角にある古いビルの地下の一室で開かれていた。和子の教え子の一人が開いたものである。
部屋全体が薄暗い中、花が生けられたところだけが、明るいスポットを浴びていて、艶やかな花を浮かび上がらせている。
タケルは本来、美とは無縁の存在である。というよりも、無関心であるといった方がよい。
ユリの大きな花弁を観ているうちに、タケルはふいにマリのことを想像してしまった。マリの美しい笑みを孕んだ顔が浮かび、その均整のとれた裸体が浮んだ。やがて、最も密かな潤いを含んだところさえ想像してしまった。タケルは思わず眩暈を感じた。その美しさといい、全体から匂うさまといい、花は余りにもマリに似過ぎていた。
「どうしたの?」と和子が声をかけた。
タケルが思わずよろけたからである。
「大丈夫だよ」と言って何でもなかったように振る舞った。
それにしても、何という色の氾濫であろう。何という香りの洪水であろう。タケルはそれに嘔吐さえ感じて、「先に出る」と言い残して、展示会を後にした。