小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

雷獣

INDEX|2ページ/2ページ|

前のページ
 

そのうちに鍋は頃合になって、いよいよ旨そうな音と匂いが、私の空っぽの腹に木霊し出した。
もしかすると亭主は鍋のことを忘れているのかも知れない、私はそう案じて、
「いい匂いだな」
と思い切って言ってみた。
けれども亭主は聞こえたのか聞こえていないのか、判然としない態度で、へえ、と生返事をしたきり、こちらを見てにやにやしながら、しきりに手を揉むばかりである。
何かこちらがするのを待っているのか知ら、そう思いを巡らせるうち、心づけか、と思い当たって、私は懐に手を入れようとした。
すると亭主がこの時だけ恐ろしく素早い動きで入れかけた私の手を押さえ、
「いえいえ、お代は一切頂きません」
と、驚いたような、恐縮したような様子で言った。
私はますます訳が分からなくなって、どうしたものか頭を回転させた。
そうしているうちに鍋は頃合を過ぎ始め、肉は硬くなり出し、野菜もしなり切ってぐずぐずになり出していくのがありありと分かった。
今すぐにでも食べなければ全部駄目になってしまう、と私は泣きたいような気持ちになって亭主の顔を見た。
どうすれば居間へ上がって鍋を食わせてもらえるのか、考えようと思っても、気ばかり焦ってちっとも頭が働かない。
取り立てた他意もない様子で愛想笑いを浮かべ、手を揉んでいる亭主の顔が、腹立たしくもあり、また恨めしくもあった。

やがて亭主は、
「いやさ、そういえば」
と独り言を言って立ち上がると、居間を横切って奥の勝手口らしいところから外へ出て行った。
私は立ち上がり、居間の縁に手をかけて、伸び上がるように囲炉裏の鍋を覗いた。
鍋の中ではもう汁が半ば干上がって、肉も野菜も縮み切り、小さく固まってしまっている。
これではせっかく用意した鍋も台無しだ、私はそう思って居ても立ってもいられないのだけれど、言われてもいないのに勝手に上がりこんで鍋の様子を見に行っているところへ亭主が戻ってきたらどうしようと思うと、なかなか居間へ上がる踏ん切りがつかなかった。
私はじりじりした気持ちで亭主の帰りを待った。
亭主はなかなか戻らなかった。
時々しびれを切らして、これだけ長いこと帰らないのだからまだしばらくは戻らないだろうと思い切り、居間へ上がろうかとも思うのだけれど、そうすると何だか急に、今にも戻るような気がし出して、また思い止まった。

そんなことを繰り返すうちに夜がすっかり更けてきて、土間の底冷えがひどくなった。
外は雨が降り出したらしい。
さあさあと、木のさざめくような気配がひっきりなしに外を流れて、時折稲妻が音もなく屋敷の中を照らした。
私は上着にくるまって震えながら、詰まらないことになったと思った。
職を求めてただ一人の旧知を訪ねる途中、ようやく見つけた宿でこんな待遇を受けるのはただひたすらに詰まらない。
そう考えると、胸の奥に何とも言えない唐突な感情が込み上げた。

よし喰ってやる、私は斬って捨てるような勢いでそう考えると、土足のまま居間へ上がって、ずかずかと鍋に近づいた。
鍋はもう汁が完全に干からびて、煮え残った野菜の芯やかちかちに硬くなった肉の切れはしが真っ黒に焦げて底にへばりついているばかりである。
私は構わずそれらを毟り取っては口に放ってばりばりと噛み砕いた。
味も何も分からない。
ただひたすらに焦げた野菜を齧り、硬い肉を舐った。
そうしてたちまち平らげて、ほうと息をついて顔を上げると、いつの間に戻ったのか、亭主が私の向かいに座ってこちらを見ていた。
私は息を飲んでその場に凍りついた。
一体いつから見られていたのか分からない。
亭主の顔はさっきまでとは打って変わって何の表情も感情もなく、木偶か屍のようである。
私が鍋の中身を食べている間、その顔で身動きもなくずっと見つめられていたのかと思うと、冷たい手で背中を撫でられるような心地がした。
とにかく何か言わなければ、私はそう思って口を開きかけた。
その瞬間、ひと際強い稲光りが閃いて、真っ白な光が差し込み、屋敷の中を強烈に照らし出した。
途端に屋根をつんざくような雷が鳴ったので、私は声にならない叫びを上げて立ち上がった。
そうして、立ち上がったきり茫漠と震えるばかりで何もできなかった。
稲妻が立て続けに光り、銅鑼を打ち鳴らすように雷が鳴り散らした。
それに合わせて色のない亭主の目玉が電球のようにぴかぴかと明滅した。
作品名:雷獣 作家名:水無瀬