鈴~れい~・其の二
この様子では、今夜はお亀にとっては辛い一夜になりそうだった。暗澹とした想いで思わず涙ぐんだお亀を、嘉利が感情の読み取れぬ瞳で見つめた。
「おい、脚許を見てみろ」
突如として言われ、お亀はハッとして脚許を見た。
見れば、今少しのところであの花―露草を踏むところであった。
「どうした、三日前、そちは俺に何と申したか、もう忘れたのか? 花も生きているゆえ、踏んではならぬ、摘んではならぬと鹿爪らしい顔で申したではないか」
「も、申し訳ございませぬ」
お亀が消え入るような声で言うと、嘉利はその場には場違いなような、笑いを含んだ声で言った。
「俺が先刻、そなたを止めなければ、そなたはこの花を踏んでいたぞ?」
「―申し訳ございません」
ひたすら詫びるお亀に、嘉利が吐息混じりに言った。
「そなたは俺がそれほどまでに厭か?」
厭だと応えられれば、どんなに気が楽だろう。あなたなど嫌いだから、早く解放して欲しい、さもなければ、慰みものにするためだけにここに閉じ込めておくのは止めて、いっそのことひと思いに殺して欲しい。
そう頼みたい。だが、言えない。
涙の滲んだ眼に、露草の清しい蒼がぼやける。
嘉利はなおもお亀を静かな眼で見つめていたかと思うと、思いもがけぬことを言った。
「そちは、俺の父の話を聞いたことがあるか」
「殿のお父上さまのお話にございますか?」
お亀が取った行動自身も、自分でさえ信じられないものだった。
愕くべきことに、嘉利がふと思いついたように洩らした呟きに、お亀は問い返していたのだ。
「父は俺と違って、評判が良かった。そう申せば、そなたもそのようなことをあの時、申していたな」
―殿のおん父君、先代嘉倫公は世に並びなき名君と評判高きお方にござりました。そのお父君が殿の今のご所業の数々をお知りになられたれば、さぞやお嘆きになりましょうぞ。
―利いたようことを申すなッ。父の話を俺にするでない!
〝あの時〟というのは、ひと月前の御前試合を指すことは明白だ。
あのときのやりとりが脳裡に甦る。
あの日、お亀が先代の名を出したときの嘉利の怒りは凄まじかった。もし、視線だけで人を射殺すことができるのであれば、お亀はあの瞬間、嘉利にあの氷のような視線で射殺されていたに相違ない。
「あの折は、私も言い過ぎました。自分で申し上げておきながら、このようなことを言うのは何でございますが、私が殿のお立場であったとしても、お父君の御事をあのような場で出されたれば、怒ったと存じます。あれは、私の失言にございました」
それは本音だ。あのときは、嘉利にむやみに人や動物を殺したりするのを止めて欲しい、〝畜生公〟などと不名誉極まりない呼び名で呼ばれるような藩主であって欲しくない、その一心で言ったことだけれど、あそこまで―少なくとも彼の父親を持ち出して比較するのは良くなかっただろうと反省はしている。
自分より優れた人物と比べられるのは、誰しも厭なものだ。ましてや、それが自分の親である場合は。
「ホウ、今日のそなたはいつになく殊勝だな。そのように大人しく素直なそなたは、なおのこと可愛いぞ」
「お戯れを」
お亀の白い頬に朱が散った。
今日の嘉利はこれまでに見たことがないほど穏やかで、機嫌が良かった。まるで別人のようだ。
「俺のことを、そなた何と思うていた。女に甘い睦言の一つも言えぬ朴念仁と思うたか」
揶揄するように言い、声を上げて笑った。
いつも、こんな風に笑っていれば良いのに。
ふと、そんなことを思う。
嘉利には、何か常に暗い翳りのようなものが纏わりついている。強いていえば、孤独だろうか。暗い光を宿した瞳は凍てついて、それが何故かお亀には時々、とても哀しげに淋しそうに見えるのだ。
だが、そんなことを言えば、嘉利はまた怒るだろう。
「そなたが柳井幹之進の縁者というのは真のことか?」
唐突に訊ねられ、お亀は少し躊躇った後、頷く。今更、隠すようなことでもない。
「はい、柳井幹之進は私の伯父に当たりまする」
「そなたの剣の腕は女ながら、たいしたものであった。あれは、大方、伯父から教えを請うたものであろうな」
直截に賞められ、お亀はまた頬をうっすらと染めた。
「殿ほどのお方にそこまでお褒め頂き、光栄にございます。僭越を承知で申し上げますが、殿の剣技こそ、真にお見事なものと感服仕りましてございます。まさに、剣の天才とお見受け申し上げました。正直に申しますと、私の伯父が生きておりましたとしても、殿ほどのお方とお手合わせ致せば、負けておったやもしれぬと存じます。実は私、あの後で殿のような遣い手と直接刃を交えようと考えたなぞ、何とも無謀な生命知らずなことをしたと冷や汗を流しました。もとより、我が生命を捨てることは覚悟の上での行いではございましたが」
お亀が素直に心境を語ると、嘉利は晴れやかに笑った。
「それは、そちの買いかぶり過ぎだ。そちの伯父柳井幹之進は〝剣聖〟とまで謳われている伝説の剣豪ではないか。俺は、柳井幹之進のように、生きながら伝説と化したような男は他に知らぬ。―もっとも、情け知らずの冷酷な藩主として俺の悪名も相当、轟いているようだと、そなたはやはり、あの時申したがな」
確かに、そんなことも言った。
悪びれた様子もなく淡々と言う嘉利を、お亀は窺うように見る。
「そなたの伯父と俺が仮に一対一で勝負したとて、俺が返り討ちに遭うのが関の山だ」
嘉利は自らを卑下した風でもなく応え、お亀を見た。
「そちの伯父は、どのような男であった?」
お亀はしばらく思案した後、慎重に言葉を選びながら応えた。
「私の伯父は常々申しておりました。剣は人を殺すためにはあらず、我が生命を守り、人を活かすための活人剣だと」
「―俺とは反対の剣技だな」
しばらく沈黙が落ち、やがて、嘉利が呟いた。
「だが、俺はそなたの伯父に逢うて、直接教えを受けてみたかった。もし、そなたの伯父が俺の指南役であれば、俺もその人を活かす剣とやらを学び、身につけることができたやもしれぬ」
「殿のご指南役は、どなたにございましたか」
あれほどの剣技を伝授したからには、指南役も相当の遣い手であったに違いない。幾ら嘉利自身に才能があったとしても、それを最大限に引き出すのは指南役の役目だからだ。
お亀がふと興味を引かれて訊ねると、嘉利はポツリと洩らした。
「俺の指南役はおらぬ。強いて申せば、俺は父に剣を教わった」
「ご先代さまが殿のご指南役でおわされましたか。それは、お羨ましいことにございます。私の父は小さな村の村長で、百姓にございましたゆえ。剣の道なぞ教わることなどできっこありませんでした」
「―それが世の常のような、まともな親子関係であれば、さもありなん。しかしながら、俺と父上は違う」
思わずゾッとするほど低い声に、お亀はハッとした。
嘉利の眼が、いつもの暗い光を帯びている。
つい先刻まで若者らしく晴れやかな表情を見せていた横顔がぬぐい難い孤独の陰を滲ませていた。
「俺が父上の真の子ではないという噂があることを、そちは知っているか」
「いいえ、そのようなお話は一切耳にしたことはございませぬ」
やっとの想いで言うと、嘉利がフッと笑う。