鈴~れい~・其の二
その何とも淋しげな笑いに、一瞬、胸を突かれた。
「俺の母が嫁いで参りし砌、まだ祖父、つまり先々代の藩主嘉公(よしとも)公がご存命であらせられた。父上には幼い頃に亡くなった二つ違いの姉姫がいてな。他の兄弟(きよう)姉妹(だい)(嘉倫は嘉公の第二子である。側室から生誕した長男は夭折)はすべて異腹だが、その姉姫だけは正室腹の同母の姉であった。わずかに二つで亡くなられ、父上ご自身は顔も知らぬ姉姫だが、俺の母はその亡くなられた姫によく似ていたという。歳も丁度、父上より二つ上、亡くなった姉姫と同じであったことから、嘉公公は母上をたいそう慈しまれたと聞く。そうだ、その可愛がり様が到底尋常ではない―舅が嫁、息子の妻に対するものではなく、度を超えていると、当時、皆が噂し合ったそうだ」
「まさか、そのような」
お亀は言葉を失った。唇が、戦慄く。
「真相は知らぬ。何しろ俺が四つのときには、もうお祖父(じじ)さまはお亡くなりになられたからな。お祖父さまのお顔も実はよく記憶しておらぬ。だが、少なくとも、俺の父はその噂を本気にしていた。信じるとまではいかずとも、かなり気にしてはいた」
七つになったばかりの頃、嘉利は突然、父に庭に引っ張り出された。
幼い嘉利が眼を見開いて父を見つめている前に、一本の木刀が投げてよこされた。
―その木刀を取れ。為千代、そちは私の子ではない。ゆえに、私はそちを我が子とは呼ばず、〝伯父(おじ)子(ご)〟と呼ぼう。我が子ではない私がそなたに授けてやれるのは、我が血筋ではなく、この剣だ。さあ、全力で私に打ちかかってこい。私を殺したいと憎むほどの心意気で、向かってこい。もしお前を殺せるならば、お前を殺したい、その存在をこの世から消し去りたいと思うほど、私はお前を憎んでいる。もし、お前が私を殺さねば、いつか私がお前を殺すやもしれぬぞ? さあ、その木刀を取れ。為千代、私を殺す気で打ち掛かってこい。
嘉倫は茫然と父を見つめる幼い息子に、平然と言った。
「そんな夫婦だ。当然、仲睦まじいはずがない。俺は、父と母が共にいるところを、夫婦らしく語り合うているところを一度として見たことがない。父からは疎まれ、母からは逆に過剰なほどの愛情を与えられて俺は育った」
その後も、嘉倫は度々、息子を庭に連れだし、剣の稽古をつけた。そして、その度に、息子の耳許で囁いたのだ。
―もしお前を殺せるならば、お前を殺したい、その存在をこの世から消し去りたいと思うほど、私はお前を憎んでいる。もし、お前が私を殺さねば、いつか私がお前を殺すやもしれぬぞ? さあ、木刀を取れ。為千代、私を殺す気で打ち掛かってこい。
それは、幼い子どもにとっては、あまりに残酷な言葉であった。
「父上は愚かではない。何より体面を重んじられる方だからな。そのような悪しき噂、お心の内にずっと秘めて、自ら吹聴するような真似はなさらなかったのだろう。だが、素顔の父上は、俺から言わせれば、情け深い賢君とは笑わせるな。俺に我が子ではないと言い切ったときの父上の顔は、恐らく、人を斬るときの俺に似ているだろう。誰かを憎み、殺すほど憎まずにはおれない―、怒りとやるせなさと憎悪と、込められるだけの負の感情を刃に込めて振り下ろす、そんな俺の顔はあのときの父に似ているかもしれない」
お亀はもう言葉もなかった。
賢君、藩中興の英主と世に讃えられ、いまだに藩士、領民から慕われている先代藩主が実はそのような表の顔とは別に、意外な素顔を隠し持っていた。わずか七歳の幼子が突然、父から我が子ではないと告げられたときの衝撃、心の痛みは察するにあまりある。
恐らく―、嘉利のそのような幼き日の心の葛藤が今日の彼を形作ったに違いない。
それにしても、世に比類なき名君と讃えられる先代嘉倫公が陰で〝畜生公〟と呼ばれる嘉利に〝殺人剣〟を教え込んだ張本人だとは。皮肉な話もあったものだ。
嘉倫公もまた彼なりに疑惑と真実の狭間で苦しんだのだと思うが、その憎しみとやるせなさを幼い息子に向けるとは、あまりにも大人げないふるまいだといえた。
そういう意味では、嘉利もまた秘められた悲劇の犠牲者の一人、いや、彼こそが最大の犠牲者の一人であっただろう。
「俺が変わったのは、それからだ」
嘉利が呟き、ふと自分のひろげた両手を眺めた。
「剣を持つ度、耳許で父の声が聞こえてくる」
―もし、お前が私を殺さねば、いつか私がお前を殺すやもしれぬぞ? さあ、木刀を取れ。為千代、私を殺す気で打ち掛かってこい。
嘉利が震える声で言った。
「俺のこの手は血にまみれている。父の声が耳許で囁く度、俺は無性に剣をふるい、血を見たくなるのだ。―恐らく、俺はどうかしているのだろう。世間で呼ばれているとおり、〝畜生公〟というにふさわしい気狂いだ。藤乃、俺は七歳で父と信じていた人に裏切られ、結局は最後には母にも見放された。母は俺が十歳になる前に、城を出てさっさと尼寺に入った。その二年後に尼寺で亡くなるまで、俺に逢いにきたことは一度としてなかった」
嘉利がお亀をひたと見据えた。
「だから、そなただけは俺を裏切るな。俺の傍にずっといて、俺だけを見ていてくれ、そなただけは俺から離れないでくれぬか」
お亀は、そのまなざしのあまりの強さに気圧され、眼を伏せた。
何故だろう、その瞬間、お亀の脳裡をよぎったのは柳井小五郎の顔と、お香代の鈴と共に大切に隠し持っているあの小さな手ぬぐいであった。
―私は、私の想いは―。
自分の心に問いかけ、唇を噛む。
顔を上げると、暗い光を宿した嘉利のまなざしが射貫くように見つめていた。
そんなはずはないのに、お亀には、この時嘉利の眼が泣いているように見えた。
言えない。こんな淋しそうな眼をした男に、本当の気持ちを告げるなど、お亀にはできない。