鈴~れい~・其の二
剣の試合で対峙するのであれば、これほどの恐怖は感じなかったろう。たとえ負けたとしても、正々堂々と自分の気の済むように真正面から闘い、剣士として潔く散ることができるはずだ。
だが、今のお亀はあまりにも無防備すぎた。
蛇のように底光りのする眼を見ている中に、我知らず身体が震えてきた。
「ホウ、あれほど威勢の良い啖呵を切り、俺に説教までしておきながら、どうした? 今夜は弱気だな。どうした、俺が怖いのか」
面白そうに言う嘉利に、お亀はキッとして言った。
「いいえ、私はあなたなど怖くはありません。さ、殺すなら早い中にさっさと殺しなさい。私を生かしておけば、また何をするか判りませんよ。あなたの生命を狙うかもしれない」
「こいつは良い。説教の次は、今度は俺に命令するときたか」
嘉利は低い声で笑いながら、お亀にグイと顔を近付けた。
「だが、気の強い女は、俺は嫌いではない。少なくとも、世を儚んで自ら死ぬような後ろ向きな女よりはよほど良い」
それが、お香代のことを暗に指しているのだと判り、お亀は唇を噛んだ。
「よくもそのようなことが言えますね。自分が好き放題に辱め、絶望の淵に追い込んでおきながらのその科白。あなたのような方を恥知らずというのです。あなたには良心というものがないのですか?」
と、嘉利がプッと吹き出した。何がおかしいのか、狂ったように声を上げて笑っている。
地に這うような声でひたすら笑うその姿は不気味でさえあった。
お亀が流石に薄気味悪いものでも見つめるように眺めていると、ふと嘉利が嗤いをおさめた。
「優しさ、良心、よくもまあ、それだけ綺麗な言葉ばかりを並べ立てられるものだ。反吐が出るほど上辺だけきれいな、中身のない言葉ばかりをな。―それでは、そなたに訊くが、そんな言葉に、一体、何の意味がある」
お亀は言葉を呑み込む。
嘉利がいっそう顔を近付けた。
互いの呼吸が聞こえるほど間近に男の顔が迫っている。
お亀は瞬間的に嫌悪と恐怖を感じ、思わず顔を背けた。
「それは―」
すぐには応えられる問いではないが、それでも考えながら言葉を紡いでゆく。
「私は人を傷つける分だけ、自分の心も傷ついてゆくのだと思います。あなたは、人を殺したり傷つけたりして、本当に愉しいのですか? 愉しいと思っているのは実はあなたの無理な思い込みで、本当は人が流している涙と血と同じ分だけ、あなた自身も苦しんでいるのではないですか。私には、あなたが心から人を傷つけることを愉しんでいるようには思えません。何だか、とても淋しい、哀しそうな眼をしているように見えます」
「そなた」
嘉利の顔が愕きに強ばった。
「俺が、この俺が淋しそうな眼をしているだと? 人を殺して、俺自身も苦しんでいるだと?」
嘉利がお亀の手首を掴んだ。
「俺は気の強い女子は好きだが、生意気なのと説教ばかりする女子は好かぬ。殊に澄ました顔で知ったようなことばかり言われるのは苛々するのだ。説教や小言はもう聞き飽きた。さて、この生意気で可愛い獲物をどうしようか。気性の荒さはともかく、この生意気さは少し仕置きをしてやらねば、ならぬようだ」
「放して」
お亀が渾身の力を込めて引っ張っても、絡みついてきた男の手は離れない。
「しかし、よくよく見ると、そなたは可愛い顔をしているな。最初はあの女の友だというのが信じられぬ平凡な器量の女子だと思うたが、そなたは怒らせると生き生きと美しくなるようだ。これは少々困る。ま、いずれにしても、良い拾い物をした。あの女と同様、可愛がってやろうほどにの」
その声に潜む暗い愉悦の響きに、お亀は咄嗟に身の危険を感じた。
「一体、私に何を」
本能的な恐怖を感じて後ずさるお亀の身体を、嘉利がすかさずグッと力を込めて引き寄せる。
「そなたには、俺を愚弄した分、更にあの女とその亭主が俺に味合わせた不快感の分までたっぷりと詫びて貰わねばならぬ。なに、難しいことはない。その身体で俺の憂さを晴らしてくれれば良い。黙って大人しく俺の意に従えば良いのだ。俺はこう見えても、そちが気に入っておるのだ。素直に身を委ねれば、何も手荒なことはせぬ。存分に可愛がってやるぞ?」
「何を―言って?」
お亀が小首を傾げると、嘉利が暗い笑いを零した。
「もしや、そなたは男が初めてなのか?」
何故か嘉利がいっそう嬉しげな表情を見せたことに、お亀は戸惑った。
「よいよい、見かけによらず、ねんねなのだな。だが、身体は十分に大人のようではないか、のう?」
嫌らしげな眼で身体を嘗め回すように見つめられ、お亀の膚がザッと粟立った。
「俺が何かもすべて教えてやろう、手とり脚取りな」
抱きしめられたまま、その場に押し倒され、お亀は悲鳴を上げた。
「何をするの。止めて、止めてッ」
お亀の前結びにした帯を嘉利が解いてゆく。
「いやっ、止めてよ。私、ひと思いに殺されるんじゃなかったの? どうして、こんなことになるの?」
泣きながら抗ってみても、男の力は尋常ではない。渾身の力を出して手脚を動かしても、抵抗は難なく封じ込まれた。
圧倒的な力の差に、お亀は怯えた。
自分ではこの男には敵わない。
眼に涙が滲み、身体が恐怖に震える。
それでも、こんな男に弱いところを見せたくなくて、お亀は懸命に泣くまいと耐えた。
が、嘉利には、お亀のそんな我慢さえ、愉しくてならないようだ。
「愛い奴だ。そのように怖がらずとも良いぞ。―そなた、男は初めてなのか」
また同じことを訊かれ、お亀は困惑して嘉利を見つめた。
「何を言ってるのか判らないわ」
涙ぐんだ眼で言ったお亀を覗き込んだ嘉利が、お亀を可愛くてならぬというように強く抱きしめた。
「そのような問いの意味も判らぬのか。そなたは生娘なのかと訊いておる。その、つまりだな、男に膚を許したことがあるのか、身体を重ねたことがあるのかと申しておるのだ」
「―」
流石に、ここまで言われては問いの意味が判った。あからさまに問うことではない。
お亀はあまりの恥ずかしさに身も世もない心地で、頬が赤らんだ。耳まで紅くなり、どうしたら良いのか判らない。
「あい判った。何も応えずとも良い。その初な反応だけで、もう十分だ。これは良い、良き拾い物をした」
何故か歓んでいる男を、お亀は薄気味悪く思いながら見上げていた。
「可愛い奴だ」
呟きながら、首筋に降るような口づけを落とす男を、お亀は慌てて押しのけようとした。
首筋にかかる生暖かい吐息が気持ち悪い。
「止めて、こんなことしないで!」
両手で男の身体を突き飛ばそうとしても、やはりお亀の力ではビクともしない。
「いやっ、やめてったら。止めて」
お亀は泣きながら暴れた。
こらえていた涙が溢れ、白い頬をころがり落ちる。
胸許がくつろげられ、ひんやりとした夜気が素肌に纏わりつく。胸の豊かなふくらみを両手で包み込まれて、お亀は更に悲鳴を上げた。
「誰か、来てっ。助けて。誰か―、お願い!!」
「泣くな。怖がることはない。誰もが初めは怖いと思うが、直に慣れることだ」
耳許で囁かれ、熱い吐息が耳朶をくすぐる。