鈴~れい~・其の二
「―それに、この娘、あの女とその亭主にゆかりの者と申した。あの者たちには、俺も思うところがある。これ見よがしに自害なぞしおった女と、折角の俺の召し出しを蹴って、いずこへとも知れず逐電した亭主。実に不愉快だ。あの者たちへの鬱憤をあの娘に代わって晴らして貰うのも良い。のう、頼母。そう思わぬか」
それは聞き取れぬほど低い呟きであった。そのため、少女には聞こえなかったのだけれど。
そのまなざしの冷たさ、声の容赦なさに、頼母でさえハッとして藩主を見た。
嘉利が美しい貌を歪めている。氷のような微笑。それを美しいと呼ぶ人もこの世にはいるのだろうか。頼母は、陰惨な陰にふち取られた若き主君の横顔を、ゾッとしながら眺めていた。
その日から二日が経った。
その夜、お亀は突如として牢から引き出された。城内の地下牢から連れ出され、城まった場所まで連行されたお亀は湯浴みをさせられた。身体をきれいにした後、髪まできれいに梳られ、薄化粧まで施され白い着流しの小袖姿で案内されたのは、長い廊下を歩いた先の座敷だった。
銀の月が清(さや)かな光を放つ夜だった。お亀は唇を噛みしめながら、その場に端座していた。自分が何故、何のためにここに連れてこられたのかを、彼女は理解していなかった。ただここで最期の瞬間を迎えるのだ―と考えて疑っていなかったのである。
迂闊だった、と自分でも思わずにはいられない。お亀は少女時代から剣聖と謳われた伯父柳井幹之進から剣を教わってきた。
ゆえに、剣の腕には自分でもそこそこ自信はあった。そんじょそこらの柔な男よりは勝てると思っていた。そう、たとえ誰に負けても、あの畜生公と異名を取る殿さまにだけは勝てると信じていたのだ。
ところが、あの体たらくはどうだろう! 木檜嘉利はお亀が考えていた以上に、いや、全く考えていなかった遣い手であった。お亀は曲がりなりにも藩内の予選を勝ち抜き、歴戦の勇者たちを打ち負かして御前試合の場に立ったのだ。たとえ決勝戦までゆかずとも、予選を勝ち抜いて本戦に出ることができただけでも、はやそれで腕に憶えのある者だと判る。それほどの難易度の高い試合でもあった。
あの門屋陣右衛門というのもかなりの遣い手であったが、お亀には正直すぎる剣だと思えた。いわば、あの陣右衛門という男が、それだけ真っすぐな気性の持ち主であるということも判る。
―剣は人なり。
伯父はかつてよく、そう言っていた。
陣右衛門の剣は立つが、策略のない剣だ。つまり、あの男は剛の者ではあるが、策を弄する剣の技を扱うことはできない。お亀は陣右衛門の存在はむろん知っていたが、道場で直接打ち合ったことはない。陣右衛門の方も男装のお亀の正体に気付いてはいなかったようだ。
物心ついた頃から、お亀は夏になって伯父の屋敷に滞在する度、稽古をつけて貰った。自分よりはるかに年上の、しかも屈強な男たちに混じり、剣の修練に励んだ。
夏が終わって村に帰っても、一人、庭で黙々と素振りの稽古に余念がなかった。お亀の剣は〝活人剣〟だ。それは、昔、剣の師匠でもある伯父から受けた教えでもある。
―剣とは人の生命を奪うものではなく、己れの身を守り、人を活かすためのものだ。
というのが伯父の持論であった。
だから、お亀も他人の生命を奪うような剣は使わない。
しかし、あの男―畜生公と畏怖される嘉利の剣は違った。
あの気迫、間の取り方の絶妙さ。打ち込みの烈しさは並ではない。嘉利が本気を出せば、小五郎でさえ、いや、もしかしたら亡き伯父でさえ互角か、悪くて負けるかもしれない。それほどの遣い手であると見た。
天才的な閃きというのか、要するに剣技の道においては天才と呼べるだけの器量を持つ男だと思った。
幼い頃は自分より年上の少年たちを次々に打ち負かしていたお亀だったが、やはり力や体格の差はいかんともしがたい。成長するにつれ、女性らしい華奢な体軀となり、幾ら本気でぶつかっても力の差でわずかずつ押されるようになった。ゆえに、お亀は体力の点では劣る己れが勝ち得るすべとして、守りよりも攻めの剣を心がけた。
相手に押されて引くばかりでは、いずれ体力が続かず、力で負けてねじ伏せられてしまう。だが、まだ余力がある段階で押して押してゆけば、わずかなりとも勝ちが期待できる。
先日の御前試合では、その点では思うような闘いができなかった。陣右衛門がひたすら打ち込んでくるため、それを防御するのに精一杯で、自分から攻め込むだけの余力がなかったのだ。が、後半になって陣右衛門に油断という隙が生じたため、そこをついた。
後半になって、あそこまで盛り返して相手を押しの一手で負かすことができたのは幸運であったといえよう。もう少し長引けば、体力的にお亀の方に限界が来ていただろう。
男性と比べれば、女のか弱い力が弱点ではあるが、それでも伯父に鍛えられ、自らも一心に修練を積んだお亀であってみれば、並の遣い手には引けを取らない。
現に、予選から順調に勝ち残り、本戦においても初戦は難なく突破、以後も二回戦、三回戦と勝ち抜き、ついには木檜城のあの男に近付くことができのだ。
そのお亀をあの嘉利という男はいともあっさりと交わした。まさに百人に一人、いや、千人に一人出るか出ないかの逸材だろう。
だが。あの男の剣は、伯父が使う剣とは正反対の剣―つまり殺人剣だ。殺人剣とは、文字どおり、相手を殺す剣。己れの身を守るためではなく、自ら攻撃し、しかも最初から相手の生命を取ることを目的とし使う剣。
―そのような剣は邪道だ。
伯父は、口癖のように言い、殺人剣を忌み嫌っていた。
剣は人なりとはよく言ったものだと思う。確かに、嘉利の放った一撃は凄まじかったが、その剣は情け容赦のない剣だ。一歩間違えば、あの男が繰り出した切っ先は、自分の喉を刺し貫いていたに相違ない。
あの男は敢えて、急所を外したのだ。
殺そうと思えば、あの男の腕なれば一撃でお亀の息の根を止めることができたはず。それを敢えてしなかったのは、お亀を少なくともあの時は、殺すつもりはなかったからだろう。
死の恐怖をたっぷりと味合わせた上で、なぶり殺しにでもするつもりなのか。いずれにせよ、あまりゾッとしない理由であの場はお亀を殺さなかったことだけは想像できる。
さて、これから、自分はどのような殺され方をするのだろう。
いっそのこと、ひと思いに殺してくれれば楽で良いのだけれど、あの男のことゆえ、そう容易くは死なせるつもりはないのではないか。
お亀が我知らず小さな吐息を洩らした時、襖が外側から音もなく開いた。
お亀は弾かれたように面を上げた。
白い着流し姿の嘉利がつかつかと部屋に入ってくる。突如として現れた男を、お亀は茫然として見つめた。
「あなたは―」
お亀は眼を見開いた。
何故、この男がここにいるのか判らない。
嘉利が近寄ってくると、口の端を歪めた。
「随分と愕いているようだな」
呟くと、いきなり顎に手をかけてクイと顔を持ち上げられた。
冷ややかなまなざし。酷薄そうに歪められた口許。射貫くように自分を見下ろしてくる男を、お亀はこの時、初めて怖いと思った。