鈴~れい~・其の二
「それでは、勝者柳井亀之助。恒例により、殿おん自ら盃と報奨金を賜る。そちには、いずれ、武芸指南役としてのお役目に就く名誉をも与えられよう。さ、こちらへ参られい」
晋三郎がひときわ声を張り上げ、少年は頷き御前へと進み出る。
むろん、既に剣は鞘に収めてある。
幔幕の前でひざまずいた少年は両手をつき、平伏した。
「殿より盃を頂戴する」
これまでも歴代の優勝者は藩主自ら祝杯を賜ることになっている。ゆえに、柳井亀之助がその場に進み出たことも至極順当なことであった。
丸に桔梗の家紋を染め出したきらびやかな羽織袴に身を纏った嘉利が掲げ持った盃をクイと煽る。その後、自らが干した盃を無造作に平伏する少年に差し出した。
少年は依然として面を伏せたままだ。
「これ、殿より盃を賜る。早う致せ」
傍らの頼母が焦った声で促した。
ここで、いつものように癇癪を起こされ、折角の御前試合を台無しにされては、たまったものではない。
はらはらとなりゆきを見守る頼母が小さな吐息を洩らす。まさにその時。
一瞬の空白が生じた。
刹那、少年が鞘からひとたびは納めたはずの剣をスと抜いた。かと思うと、さっと刃を繰り出し、その切っ先を藩主嘉利に突きつける。
「藩主嘉利公、お生命頂戴致す。お覚悟召されい」
声と共に輝く白刃を振り掲げ、嘉利に向かって飛びかかった少年の動きは実に速かった。その場に居合わせた誰もが、刃を抜くことすらできないほど一瞬の間であった。
しかし。
その場でたった一人、刀を抜いた者がいた。
他ならぬ藩主嘉利その人であった。
見事なまでの鮮やかさで斬りかかってきた少年の刀を嘉利は危ういところ、抜いた刀で発止と受け止めた。
傍らで一部始終を見ていた頼母には、二人の剣がぶつかり合った瞬間、蒼白い火花が散ったのを確かに見た。
その時、少年の落ち着いた顔に焦りが浮かんだのを、嘉利は見逃さなかった。
「さても、子どものくせに確かにようやったと賞めては遣わすが、気の毒なことに、俺はうつけでも、ただのうつけではない。物心ついたときから、剣の道だけは確かでな」
わざと挑発するように言ってやると、少年の白い頬が紅くなった。愚弄されていると思ったのだろう。
嘉利は少年の刀を力任せに跳ねあげると、すぐにその細い腕を掴みねじり上げた。
「この細腕で、余を殺そうとしたか。愚かな奴め。そなた、何者だ? 柳井を名乗っておるが、真に彼(か)の柳井幹之進の縁者か」
「そのようなことはどうでも良い。私は、そなたのような卑劣な者に名乗る名は持たぬ」
少年が悔しげに言うと、嘉利は一瞬、眼を見開いた。
「何と、そなたは女か! その声は男子のものではないな。こいつは面白い。何ゆえ、女が俺を殺そうとしたのか」
暗愚と囁かれている嘉利は、存外に勘が鋭いようだ。
陣右衛門初め、他の者は皆、見抜けなかった事実―可憐な少年剣士が実は少女であったことをその声だけで見抜いてしまったらしい。
少年―いや、少女は口惜しさに歯がみしながら言った。
「貴様が私の大切な人たちを苦しめた。柳井小五郎どのの妻女お香代どのを貴様は辱めた挙げ句、身ごもらせた」
「そのような話、余は知らぬ」
空惚ける嘉利を、少女が睨み上げる。
「とぼけるのは止せ。知らぬとは言わせぬ。貴様は、私の大切な友を苦しめ、あまつさえ死に追いやった。貴様の悪逆非道ぶりは、木檜藩はおろか、外にまで聞こえておるぞ。何故に、そのような行いをする? 藩主たる身、領民のために生きよとまでは申さぬが、人の生命を玩具のごとく扱い、動物だけでなく人までをも虫けらのごとく殺すなぞ到底許されぬ所業だ。貴様、いずれ天罰が下るぞ」
「なるほど、それで、そちが天になりかわり、俺に天罰とやらを与えに参ったというわけか」
嘉利は鼻を鳴らし、口の端を歪めた。
本人は笑っているつもりだろうが、ただ片頬を歪めただけのその笑みは何とも陰惨なものだった。
「馬鹿な奴だ。人を殺めるのに理由なぞない。ただ血にまみれ、眼の前でのたうち回る人間を見るのは、何か無性に血が騒ぐでな。そこが良いのだ。退屈しのぎや暇潰しには丁度良いぞ」
「お前は狂っている! そんな、つまらない理由で人の生命をいとも容易く奪うとは。良いか、よく聞け。人であれ、何であれ、生きとし生けるものの生命は元来尊いものだ。たとえ神仏にせよ、藩主にせよ、むやみ勝手に他の者の生命を奪うことは許されぬことだ。あなたは望めば、何でもできる身分に生まれた。ならば、何故、その立場をもっと有効に使おうとはせぬ? 人の生命を奪い、傷つけるよりは、人のためになることを考え、この国に生まれて良かったと、今の世に生まれて良かったと民を歓ばせるような政を行おうとはせぬ。相手を傷つけるほど、自分もまた傷ついているんだぞ? 自分をもっと大切にしろ。そして、眼をよく開いて回りを見て欲しい。悪名高き残虐な藩主としてではなく、もっと優しさで人の心を、民を包み込むような藩主になってくれ。あなたは藩主、国の父ではないか。親であれば我が子たる領民を苦しめず、もっと慈しんでくれ」
少女が懸命な面持ちで訴えた。
「殿のおん父君、先代嘉倫公は世に並びなき名君と評判高きお方にござりました。そのお父君が殿の今のご所業の数々をお知りになられたれば、さぞやお嘆きになりましょうぞ」
刹那、嘉利の額に青筋が浮かんだ。
「利いたようことを申すなッ。父の話を俺にするでない!」
烈しい眼が嘉利の怒りの深さを物語っている。
傍らの頼母が眉をひそめた。
―哀れな生命知らずの小娘が。あの殿に、こうも正面向かって堂々と説教するとは。ここまで殿を愚弄したとあれば、最早生命はあるまいて。
頼母の脳裡をちらりとそんな想いがよぎる。
「俺に生命の尊さを説くとは、そなたこそ根っからの阿呆か気狂いとしか思えぬな」
嘉利が呆れたような顔で少女を眺めた。
「晋三郎。この不届き者は、牢にでもぶち込んでおけ」
「よろしいのでござりますか。仮にも殿のお生命を狙った曲者にございますぞ。このまま生かしておいては後々、禍根を残すことにはなりますまいか」
頼母が問うと、嘉利が嗤った。
「それを申せば、仮にも御前試合の優勝者をこの場で即座に殺すわけには参らぬであろう。とりあえずは追って沙汰するまで、牢にでも入れておけば良い」
と、嘉利にしては至極まともなことを言い、頼母を愕かせた。
「それに、この娘、実に面白い。これまで俺にここまで申した奴はそなたも含めて、誰一人としていなかったからな。その無謀さが義侠心に駆られた勇気と申すものか、それとも、はたまた、ただの怖いもの知らずの愚かさか。俺は大いに興味がある。ただの愚かなだけの娘ならば、すぐに殺してしまえば良いだけのことだ」
冷え冷えとしたまなざしには、嘉利の酷薄な性格がまさによく表れていた。
少女の姿から眼を逸らしもせず、嘉利がまざしそのままの声音で問う。