鈴~れい~・其の一
「何を隠そう、私は毎年、夏が来るのを心密かに愉しみにしておりました。夏になれば、お亀どのが先生の許に遊びにこられる。あなたに逢えるのは、夏の間だけでしたゆえ、毎年、夏が近付く度に、子ども心にわくわくしながら待っておりました。あまたの門弟たちに混じって剣を振るうあたの姿をいつも片隅から熱心に見つめていたように思います。私はあなたと打ち合うたことはありませぬが、ひそかに是非一度は手合わせしてみたいと願うておりました。思えば、私は、あのときからお香代ではなく、お亀どのを―」
お亀はかつて伯父の屋敷に滞在していた時分、伯父から剣の指南を受けたこともある。
しかし、伯父には伯父なりの考えあったからか、道場一の遣い手と云われる小五郎と女ながらも卓越した冴えを見せる剣を遣う姪に直接打ち合うことは許さなかった。
その時、お亀は鋭い声で遮った。
「言わないで! それ以上、おっしゃってはなりませぬ」
お亀は縋るような眼で小五郎を見つめた。
「今は、亡くなったお香代ちゃんを―小五郎さまの奥方さまを悼むべきときにございます。小五郎さまがそのような昔のことを憶えていて下さったことは、私も嬉しうございます。私にとって、小五郎さまは確かに初恋のお方ではございますが、何しろ、私でさえ、もう、心の奥底にしまい込んでいた想い出でございましたゆえ」
お香代と小五郎の祝言が決まったと、お香代本人から知らされたあの時、お亀は自ら想いを消し去ったのだ。
小五郎がお香代より自分を思っていた―なぞと考えたことすらなかった。美貌で知られたお香代より、何の取り柄もなく不器量な我が身に好意を寄せていたとは今も俄には信じがたい。
だが、たとえ小五郎の心が昔は自分に向けられていたとしても、それは所詮、昔のことにすぎない。現実として、小五郎はお亀ではなくお香代を選び、お香代と小五郎は夫婦になった。今更、二人の間に自分の立ち入る余地があるとも、また立ち入りたいとも思わない。
「申し訳ござらぬ。お亀どのにはとうに昔の話、ご迷惑であれば、お許し願います。されど、それがし、この話をしたのには子細がありまする。お香代が何者かに恥辱を受けた折、どうやら、お香代は私の名を相手に告げたようなのです。お香代の葬儀を出した後、お城より殿のご使者だという方がお見えになり、過分の香典と共に、私に武芸指南役として出仕せよとのご命を賜りました」
お亀は、ただ黙って小五郎を見つめる。
小五郎は淡々と続けた。
「むろん、そのような話、私はお受けする気は毛頭ござらぬ。殿がいかようなるおつもりで、私にそのような命を下されたのかは判りませぬ。さりながら、憐れみにしろ、逆に挑発にしろ、私は拘わり合いになろうとは思いません」
藩主からの遣いだという男は、慇懃な態度で囁いた。
―殿はこたびの奥方さまのご不幸については、特にお心を動かされておいでにござります。それゆえの格別なるお計らい、ここはどうかそのお心をありがたくお受けした方が御身のためと存ずる。
態度だけは丁寧だが、この話を断れば、お前の生命もどうなるかは判らぬと暗に脅してきたのだ。
この時、小五郎はすべてを悟った。
妻を手込めにした卑劣漢はあろうことか、木檜藩の藩主その人であるということを。
藩主の側近だという尾野晋三郎という男は、二十四、五の陰のある男だった。藩主と同年であり、乳母子、つまり乳兄弟に当たることから、幼い頃より側小姓として藩主木檜嘉利(よしとし)の側に上がり、現在も重用されている。頭の切れる男だと聞くが、その反面、嘉利の意を叶えるためならば情け容赦なく生きている犬猫でも藩主の面前で殺す冷酷な男だともいう。
馬鹿げた藩主の意を諫めるどころか、すんなりと叶えてやる側近も側近だが、そのようなことを平然と命ずる藩主もまた気違い沙汰としか思えない。
藩主嘉利の残虐非道さは藩内でも有名で、罪のない犬猫だけではなく、時には生きた人間―農民などを連れてきては、腰巾着の尾野晋三郎に試し斬りをさせ、自分は庭先でそれを面白そうに見物している。そのため、〝畜生公〟と陰で呼ばれ、怖れられているというのが実状であった。
嘉利の女好きはまた有名な話でもある。殊に生娘を抱くのが好みとかで、城中の腰元や婢女(はしため)だけでは飽きたらず、お忍びで城下に出ては若い娘や年端もゆかぬ少女をさらい、手込めにすることもしばしばだとか。
時には近隣の村に触れを出し、生娘ばかりを集めて献上させることもある。寝所に招いても、伽をさせるのはせいぜいが一、二度ほどで、後は庭で尾野晋三郎に試し切りさせるか、その娘の運が良ければ、身柄だけは無事に親許に返すこともある。中には差し出す娘がおらず、既に許婚者がいて秋には祝言の控えた娘までを強引に召し上げたという話まであった。
それほどまでに無体なことをして召し上げても、直に飽きてしまい、二、三度伽をさせただけで捨て、長続きしても十日が良いところだ。
許婚者のいた娘は珍しく気に入り、いつもよりは長く側に置いていた。後にその娘は半月後に親許に返されたが、既に藩主の子を宿していた。祝言は予定どおり挙げたものの、結局、生まれた子の出生が元で諍いが絶えず夫婦別れとなり、出戻った娘は赤児を殺し、自らも首を括った。思えば、お香代もこれと似たような悲劇であった。
とにかく悪評には枚挙に暇(いとま)がない殿さまであった。そんな藩主であれば、森で偶然見かけたお香代の美しさに眼を止めたとしても不思議はない。
恐らく、今回のその指南役云々という突然降って湧いたような話も、お香代を死なせてしまったという罪滅ぼしだとか、詫びのつもりではあるまい。大方は、自分が手込めにし、好き放題に犯した女の亭主の間抜け面をその眼でとくと見てやろう、女房を辱めた男の膝元に這いつくばる女の亭主の顔を見てやろう―そんな類の気紛れだろう。
いかにも〝畜生公〟と畏怖される馬鹿殿の考えそうな趣向だ。〝畜生公〟という呼び名は、何も罪もない動物を無体に殺すからだけではない。そのような悪逆非道は、たとえ犬畜生でもしないだろうということから、その冷酷さを〝畜生公〟と謳われているのだ。
「お香代ちゃんを手込めにしただけでは足りず、今度は小五郎さままでをもそのように愚弄なさる―、お殿さまはどこまで他人(ひと)を貶めれば気が済むのか」
お亀は唇を噛みしめた。
お香代は、あれほど小五郎の子を生むことを願っていた。待ち侘びて望んでやっと授かった子が、陵辱の末に身ごもった子かもしれぬと知ったときの、お香代の絶望と哀しみは計り知れなかったろう。
お亀は、無念の中に逝った友が哀れでならなかった。
「お亀どの、私は身を隠そうと思います。指南役にという命を拒めば、あの藩主のことゆえ、私の身も到底、ただではあい済みますまい。されど、いかにしても、妻を辱め死に追いやった男におめおめと仕えるなぞ、私にはできませぬ。それゆえ、しばし身を隠そうと決め、本日ここをお訪ねした次第にござる」
小五郎が差し出した手ぬぐいをお亀は受け取った。
視線が宙で交わる。
強い、意思を宿した瞳が決然とお亀を見つめていた。
「どうか、お達者でお過ごし下され」