鈴~れい~・其の一
小五郎はお香代を抱き上げ、馬に乗せて屋敷に連れ帰った。その日以降、お香代は小五郎を寄せ付けなくなった。小五郎が少しでも触れようとすれば、怯えたように身を竦ませ、逃げる。そして、次の瞬間、ハッとしたような表情で我に返り、詫びるのだという。
しかし、けして小五郎の腕に抱かれようとはしなかった。
小五郎はあの日―野苺摘みに出て帰りが遅かった日、妻の身に変事が起きたのだと察した。それも、お香代の身体だけでなく心をも大きく傷つけるような何かが。
それは恐らくは、お香代が何者かに狼藉を受けたということに他ならなかった。つまり、妻を他の男に陵辱されたのだ。が、小五郎はお香代にそのことについて問うことはなかった。
問えば、お香代は真実を告白せねばならなくなる。他の男に陵辱されたことを良人に話すのは、あまりに辛かろう。自分一人が何もなかったような顔でいれば良い。自分がそのことについて触れなければ、お香代もその中、辛いだろうが忘れられるだろう。そう思ったのだ。
しかし、現実は違った。
お香代はそれから三ヵ月経ったある日、突如として自害して果てた。遺書はなかったが、白装束を着た上で、懐剣で喉をひと突きにした、覚悟の上の最期であった。
お香代の亡骸を検めた医者は、小五郎に告げた。
―残念なことをなされましたな。奥方は身ごもっておられたようにございますぞ。丁度三月に入ったばかりの頃でござろうて。はてさて、よほどお心にかかるお悩みでもござったか。
老医者は沈痛な面持ちで嘆息したが、この時、小五郎は医者の言葉が耳奥でこだまするばかりだった。
妊娠三ヵ月であったというのであれば、小五郎の子ということも考えられた。しかし。
身ごもった当人であるお香代には、そも腹の子の父親が誰であるか―容易に想像がついたのだろう。否、もしかしたら、お香代自身、腹の子が誰の種であるか、自信がなかったのかもしれない。三月前といえば、お香代があられもない姿で森から帰還した日と重なる。
あの頃、身ごもったのだとすれば、お香代にも父親が誰であるか―良人なのか、はたまた、行きずりのお香代を森で手込めにしたいずこかの男か判じかねたのだろう。
お香代にしてみれば、漸く授かった子である。良人との間の子であればと何より願ったに相違ないが、現に小五郎との間には三年もの間、子ができなかったのだ。それが、行きずりの男に犯されてすぐに身ごもったとなれば、その腹の子の父が小五郎であると断言できなかったのも仕方のないことだろう。
「私が迂闊でした。私はあの日のことをお香代に訊ねない方が良いのだと勝手に決め込み、黙っておりました。しかしながら、果たして、お香代にとって、それが本当に良かったのかどうか。もし私が問えば、お香代は私に真実を話せたかもしれない。そうすれば、お香代の心の痛みを理解し、二人で共に辛い試練を乗り越えることもできたかもしれないのに。私は真実から眼を背けようとした―、もしかしたら、私自身、自分の妻が他の男に辱めを受けたという事実を認めたくなかった―なかったことにしたかったのかもしれません。妻の心の傷に触れないためなどと都合の良い言い訳をしながら、私はただ事実から逃げようとした卑怯な男なのです。私の愚かさが、お香代を死なせてしまった」
「―」
お亀は、あまりの酷い真実にしばらく言葉もなかった。
「小五郎さま、どうして、わざわざ私にそのことを教えて下さったのですか」
お亀がやっとの想いで問うと、小五郎は小さく頷いた。
「これを渡したいと思うたのです」
小五郎が懐から取り出したのは、大人の掌にすっぽりと納まるほどの大きさの鈴だった。やや大きめの鈴は、眼の前で振ると、チリリと澄んだ音色を奏でる。紅い紐が結びつけられていた。
「この鈴は、お香代が大切にしていたものです」
「ああ、お香代ちゃんが宝物にしていたあの鈴ですね。懐かしい。お香代ちゃん、亡くなったお爺ちゃんが縁日の露店で買ってくれたのだと、それはもう後生大事にしていた」
お亀の脳裡に、ありし日のお香代の笑顔が甦る。夏の夕暮れ、二人で庭の池に笹舟を浮かべ、振るような蝉の声に耳を傾けたあの日、笹舟に泥団子を載せて、ままごとをして戯れたあの日。
―これ、じっちゃんが買ってくれたのよ。
得意げに帯につけた鈴を見せてくれたお香代の愛らしい笑顔が瞼にちらついて消えない。
森で不幸にも行きずりの男たちに手込めにされてしまったあの日も、お香代は帯飾りとして使っているこの鈴だけは、ちゃんと持ち帰っていたのだ。
「お香代は遺書のようなものは一切残しませんでしたが、恐らく、これは一番の友であったあなたに貰って頂くのが良いと存じました」
小五郎の沈んだ声に、お亀は頷いた。
「判りました。確かに、お香代ちゃんの形見の品、頂戴致します」
お亀が両手で押し頂くように鈴を受け取ると、更に小五郎は懐から何やら取り出した。
「それから、ご迷惑でなければ、こちらもお受け取り願いたい」
「これは―」
お亀は弾かれたように顔を上げ、小五郎を見上げた。
「お亀どのは、この手ぬぐいを憶えておいでか」
小さな一枚の白い手ぬぐいが、ひらひらと揺れる。それは、やはり、小さな想い出のひとひらをお亀の胸に呼び起こした。
ある情景が、お亀の脳裡にありありと甦った。
そう、あれは確か最後に伯父の屋敷に泊まりにいった夏のことだ。お亀とお香代が共に十三の夏の出来事だった。
油照りの夏の夕暮れ、お亀が庭の井戸端で脚を洗っていると、背後で脚音がした。
愕いて振り向くと、相田小五郎が照れたような、困ったような紅い顔で立っていた。
小五郎も暑い最中の猛稽古で全身汗まみれ、顔にも玉のような汗が浮いている。お亀は端折った着物の裾を直し、剥き出しになった太股を慌てて隠した。
照れ隠しもあって、小五郎に咄嗟に自分の使っていた手ぬぐいを差し出してしまったのだ。
―これ、良かったら使って下さい。
言うなり、脱兎のごとくその場から逃げ出した。
後には、手ぬぐいを握りしめ、茫然と立つ少年だけが残された―。
あの夏を最後に、お亀は翌年から伯父の屋敷に遊びにゆくことはなくなった。お亀も大きくなったから、今更遊びにゆく歳でもなくなったのと、父がその頃から体調を崩し寝たり起きたりするようになったからだ。
病身の父を抱え、母がお亀が留守にするのを、随分と心細がるようになったせいもあった。
そして、その二年後、お香代と小五郎の祝言が決まったことを知った。その前年、既に父は一年の闘病生活の末、亡くなっていた。
「今だからこそ申せるが、あの時、私はひそかに、あなたが脚を洗っているところを盗み見ていたのですよ。さりながら、いつもは澄ました顔をしている自分がそのようなむっつり助平だったなぞと、他人に―いや、あなたに思われるのが厭で、一体何と言えば良いのかと途方に暮れており申した。そんな私に、あなたが手ぬぐいを貸してくれました。あの時、私は随分と自分が救われたように思いましたよ」
小五郎は遠い眼で昔を懐かしむように語る。