鈴~れい~・其の一
その無惨な有り様を、お亀は茫然とその場に立ち尽くして眺めていた。何故か、胸騒ぎがしてならない。その理由が、得体の知れぬ不安の因が何なのかは知るすべもなかったけれど、何か禍々しい予兆のような気がしてならなかった。
お亀はしゃがみ込むと、落ちた椿の花を手のひらに載せた。惨たらしく紅い花びらを喰われ、引き裂かれた花を愛おしむかのように、そっと指で触れる。それからも随分と長い間、お亀はそのまま紅い花を見つめていた。
その夜。
お亀の許をひそかに訪れた者がいた。
夜半、遠慮がちに表の戸をほとほとと叩く音が聞こえ、お亀は浅い眠りの淵からめざめた。
その夜はなかなか眠れず、やっと浅い眠りに落ちたかと思えば、不吉な夢ばかり見た。黒い巨大な魔物に背後からひたすら追いかけられるだけの夢や、紅い椿の樹に取り囲まれて立っていたら、突如としてその花が燃え盛る焔に変じ、紅蓮の焔に包まれる―怖ろしい悪しき夢。そんな夢を途切れることなく見続け、夜更けに表の戸を叩く音でめざめたのだ。
お亀は夜着の上に着物を羽織り、寝室を出た。玄関に近い部屋で寝起きしているゆえ、小さな音も聞こえる。不思議と、このような真夜中に人知れず訪ねてくる者が怪しいものだと訝しむ気持ちはなかった。
既に、この時、お亀にも予兆のようなものがあったのかもしれない。お亀が心張り棒を外し、表の戸を細く開くと、向こうには見憶えのある顔が覗いていた。
否、見憶えがあるとはいっても、正確には記憶を手繰り寄せれば、辛うじてその断片を掴み取れるというほどのものである。だが、確かにその男の容貌には見憶えがあった。男にしては整いすぎるほど整った面差し、精悍さと優美さがほどよく調和した端整な容貌は、まさしく相田小五郎―いや、今は親友お香代の良人として柳井小五郎と名乗っているはずの男であった。
「このような時刻にいかがなされました?」
お亀は男に、誰とも誰何しなかった。
唐突に問うたお亀に、男は小さく頭を下げた。
「夜分に突然、お訪ねする非礼をお詫び申し上げます。私を憶えておいでにございますか」
「はい、忘れるはずもございませぬ。お香代さまの旦那さま、昔は相田小五郎さまと仰せになられていた―今は、柳井小五郎さまとなられたのでございましたね」
その時、初めて、お亀の脳裡に何かがよぎった。何ゆえ、お香代の良人がこのような時刻に、しかも柳井の屋敷から遠く離れた鄙びた村に姿を見せたのだろう。
お亀は急き込むように訊ねた。
「お香代さまはご息災でいらっしゃいましょうか。ここ三月(みつき)ほどは便りもなく、どうしていらっしゃるのかとご案じ申し上げておりました」
「そのことで、お話があります」
小五郎は更に声を低めた。
「少しばかりお邪魔致しても、よろしいでしょうか」
お亀が頷くと、小五郎は周囲に鋭い一瞥を投げ、家の内へと身を滑らせた。玄関といっても、小さな屋敷のことだ、武家のように式台があるわけでもなく、ただ煮炊きのできる多少は広さのある土間がひろがっているだけのことだ。
小五郎は三和土に立ったままで、口早に告げた。
「香代は―妻は三日前、亡くなりました」
「え―」
刹那、お亀は言葉を失った。
先刻、己れが耳にした言葉が俄には飲み込めず、再び訊き返す。
「今、今、何と仰せにございましたか? お香代ちゃんが亡くなったと?」
いつしか〝お香代さま〟ではなく、昔のように〝お香代ちゃん〟と呼んでいた。
「さようにごさる。香代は三日前の朝、亡くなり申した」
低い声で応えた小五郎に、お亀は掴みかからんばかりに矢継ぎ早に訊ねた。
「何故に、何故に、お香代ちゃんが亡くなったのですか? 病気か何か、そのような突然の不幸があったのでございますか」
だが、心のどこで違う、そんなことがあるはずがないと、もう一人の自分が告げていた。
三ヵ月前までは、ひと月に一、二度は届いていた文がふっつりと絶え、音沙汰がなかった。どうしていたのかと案じてはいたけれど、よもや死ぬほどの病にかかっていたとは思えない。
何より、病死にせよ納得できる死に方であれば、このような夜更けにお香代の良人である小五郎自らがお香代の死を知らせにはこないだろう。
「お香代は―身ごもっていたようにございました。覚悟の上の自害にござる」
予期せぬ言葉が小五郎から飛び出し、お亀は眼を見開いた。
「えっ、それでは、お香代ちゃんは身重の身体で自ら生命を絶ったと―」
悲鳴のような声で叫んだ。
「そんなはずがありません。それは何かの間違いにございましょう。小五郎さま、お香代ちゃんは誰よりも何よりも、赤ちゃんを待ち望んでいたのですよ? そのお香代ちゃんが小五郎さまのお子さまを宿しながら、自害するなぞありようはずがございませぬ」
夢中で首を振るお亀に、小五郎が苦渋に満ちた声で応えた。
「それは、むろん、それがしも存じておりまする。お香代が私には内緒で子宝を授かることのできるという寺や神社に詣でておったこともすべて存じておりました。されど、私には言い辛うて黙っておるのだろうと察し、敢えてそのことについては何も申しませんでした」
「それでは、何故! 何故にお香代ちゃんが小五郎さまの御子を折角授かりながら、そのようなことを」
お亀が唇を戦慄かせると、小五郎は緩く首を振った。
「違うのです」
「何が違うと仰せなのです?」
勢い詰問口調になってしまうのは致し方ない。
「三月ほど前のことでした。お香代が野苺を摘みにゆくと屋敷を出たまま、半日以上も戻らなかったことがあるのです」
小五郎は唇を噛みしめ、押し殺した声で続けた。
「我が屋敷は城下にあるとは申せ、殆ど外れに位置し、森も近うござります。女の脚でもせいぜいが四半刻もあれば、辿り着けまする。常であれば、昼前に屋敷を出て、一刻ほど後には帰ってきておりました。さりながら、あの日は違った」
お香代は、半日経っても戻らなかった。小五郎はあまりに帰宅が遅いため、稽古を途中で師範代である兄相田久磨に任せ、一人馬で様子を見に出かけた。森までひと駆け、小五郎が愛馬の鹿毛を走らせると、森の入り口で向こうからふらふらと歩いてくる女と出くわした。
最初、いつものお香代とはあまりに様子が異なるため、小五郎ですらその女がお香代だとは判らなかったという。それほどに、そのときのお香代は妙だった。いや、はっきりといえば、明らかに乱暴されたと思われる―性的な辱めを受けたような痕跡があった。
着物は着崩れ、帯はだらしなく緩み、さまよい歩く脚許は赤児のように頼りなく、眼は魂を手放したかのように虚ろであった。首筋や大きく開いた胸許に、明らかに接吻の跡と思われる紅いアザが散っており、剥き出しの腕には無数の擦り傷や切り傷、更には両頬に強く打たれたような跡さえ残っていた。
―お香代。一体、何があった、どうしたというのだ?
幾ら小五郎が訊ねてみても、お香代はただ首を振り続けるばかりで何も応えなかった。