鈴~れい~・其の一
それなのに、この男は詫びるどころか、馬から下りもせず、不遜に笑っているのだ!
「失礼ではございますが、そのなさり様は、あまりといえばあまりではございますまいか。もし、あなたさまの御馬が止まらなければ、私は危うく撥ね飛ばされるところでございました」
後になって、お香代はこの時、何故、そのままさっさと立ち去らなかったのかと後悔した。が、たおやかな外見に似合わぬ勝ち気というか、負けず嫌いの気性がしっかりと出てしまったようだった。
「ホウ、晋(しん)三郎(ざぶろう)。こんなところに、気の荒い獲物が一匹、いたぞ。さて、どうする」
馬上の男は、お香代の言葉なぞ端から耳にも入らぬ様子で面白げに顎をしゃくった。
眩しさに射貫かれていた眼が漸く、明るさに慣れてくる。お香代の眼に、馬上の武士の容貌が映じた。なかなかの男前ではあるが、惜しむらくは両の眼に険があり、全身から荒んだ雰囲気が漂っている。
お香代には、この男が荒れた生活を送っていることがすぐに判った。人間にはふた通りの別があることを、お香代は幹之進や小五郎のような男を知ってからというもの、学んだ。
まず、一つの道に無心に打ち込み、己れを心身共に磨き抜くことを生き甲斐としている男。そういった人間は、むろん、己れの道に生きることだけではなく、周囲にも気遣いができる。しかし、何の目的も持たず、ただ遊興に耽り、与えられた身分や地位だけに縋ってのうのうと生きているだけの人間は堕落する。生前、幹之進はこのような類の人間を嫌った。
―身分はえてして人を駄目にするものだ。高貴な生まれに甘んじて何もせず日々を無為に生きておる輩ほど、その不甲斐のなさが表に出るものよ。人の眼を見れば、その者の考えておることから、日々、どのような暮らしをしておるかまですぐに知れる。
そう言って、はばからなかった。人を差別し、分け隔てをすることをしなかった幹之進ではあったが、とりわけ自堕落な者、身分や役職を鼻に掛けて何の努力もせぬ者は嫌い抜いた。
そんな父の薫陶を受けて少女期を過ごしたお香代には、この男がかつて父が最も嫌い軽蔑していた類の男であることが判る。
「はて、いかが致しますかな。今日は折角の良き日よりでありながら、どういうわけか一匹の獲物も見つかりませず、くさくさしておりましたところにございますが」
男の背後にぴったりと馬をつけたこれも同年齢の男が低い声で言う。
「ここで活きの良い獲物に出逢うたのもまた一興というところ、か」
男は呟くと、ニヤリと口の端を歪めた。
何とも陰惨な笑いだ。なまじ整った容貌をしているだけに、そのような顔をすると、不気味というよりは恐怖感さえ憶えてしまう。
「折角見つけた獲物をわざわざ取り逃がす法もございませんでしょう」
「ホウ、晋三郎、おぬし」
男が意味ありげな眼で晋三郎と呼ぶ男を見つめ。
ひらりと、馬から降り立った。
「女子になぞとんと興味を持つことのなかったおぬしがのう」
面白げに言い、男は一歩、お香代に近付いた。
―何なの、この男は。
お香代はまるで蛇に追いつめられた獲物のように後ずさった。
吹き荒れる雪の切片のような冷たさを宿した瞳が冷え冷えと自分を見つめている。何の感情も読み取れぬ瞳、そう、哀しみも歓びも、情欲のかけらさえもひとかけらも含まれてはいない眼だ。漆黒のその瞳は無限の闇へと続く洞(ほら)のようにも見えた。
「やれ」
男がまるで猟犬をけしかけるように無造作に声を発した。それを合図とするかのように、後方の男が進み出て、いきなりお香代に飛びかかった。
突然のなりゆきに、お香代の唇から悲鳴が上がる。見も知らぬ男に突如として襲いかかられ、その場に押し倒された。
弾みで、お香代の大切に抱えていた駕籠が転がり、中の苺が辺りに散らばる。
愕き、精一杯の抵抗を試みようとしても、所詮は非力な女の力では何にもならない。
男は物凄い力でお香代の両腕を持ち上げた格好で押さえ込んだ。
あのハ虫類のような眼をした男が近付いてくる。お香代は恐怖のあまり、気が狂いそうだった。
「いやーっ」
ありったけの力を振り絞り、両腕を縫い止めた男の手を振り切って、拘束から逃れた。
「獲物は大人しく手なずけられるよりも、少々暴れる方が馴らし甲斐がある」
男は怒る風でもなく、むしろ愉しげに言い、お香代の手を掴んだ。片手でグイと引き寄せられた途端、もう一方の手が帯にかかる。
男は一見優男に見えるが、その力はたいしたものだった。片手で楽々とお香代の動き一切を封じ込み、空いた方の手だけで慣れた手つきで帯を解いている。お香代の身体はまるで独楽のようにくるくると男の手によって自在に操られ、回された。
帯飾りとして帯につけていた鈴まで無惨に引きちぎられ、放り投げられる。祖父が幼い頃、買い求めてくれた鈴を、お香代は形見として肌身離さず大切に持っている。紅い紐のついた鈴はチリリと音を立てて地面に転がった。
帯がすべて解かれ、腰紐も同様にいともあっさりと解かれ、肌襦袢一枚きりになったお香代を男はその場に再び押し倒す。
「何をするのですか、私は柳井道場の主柳井小五郎影綱の妻、良人の兄は藩から馬廻り役を仰せつかる相田久磨にございますぞ。白昼から、私にこのようなご無体なふるまいをなされば、良人がただではあい済ましませんでしょう」
お香代は内心は恐怖に震えながらも、精一杯毅然として言ったつもりだった。
こんな卑劣な輩には、弱味を見せてはいけいないと、父幹之進がよく言っていた。
「ホウ、馬廻り役相田の伜のう」
男が鼻を鳴らす。
着ているものが上物であることからも、この男が藩でもかなりの身分、もしくは役職の武士であることは判った。恐らく、良人の実家(さと)方よりははるかに上の立場なのだろう。
そんな相手に対して、馬廻り役の相田家の嫁であることを口にしたことが良かったのかどうか。
「それでは、そなたが余にこのように可愛がられたと知れば、この上ない家の誉れとたいそう歓ぼう」
男は荒んだ笑いを刻み、お香代の肌襦袢に手を掛けた。
「何をなさるのです。無礼もたいがいになされませぬと、怒りますよ」
「晋三郎、随分と気の強い女子のようだの」
男は面白げに言いながらも、紐をするすると解いてゆく。
「何をするの、止めなさい」
お香代が悲鳴を上げ暴れると、両頬に火球が炸裂したかのような痛みが走った。
殴られたのだと―と感じるより前に、あまりの痛みにじんわりと涙が滲んだ。
「お止めなさいッ」
それでも気丈に叫ぶお香代を見、男は晋三郎と呼ぶ男と互いに顔を見合わせて卑猥な笑みを浮かべた。
「ああっ」
晋三郎と呼ばれた男がすかさず布きれをお香代の口に押し込む。
後は、くぐもった悲鳴と衣擦れの音が聞こえてくるばかりになった。
悲鳴は後にはすすり泣きに代わり、時に烈しい苦痛に耐えるような呻きになった。
しかし、その声も次第に間遠になり、やがて深閑とした森の奥で、お香代の白い身体は二人の狂った男たちによって蹂躙され続けた。