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鈴~れい~・其の一

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 そして、その時、幹之進に付き従っていた相田久磨(きゆうま)こそが、後に小五郎の義兄(あに)となった人である。幹之進が跡目にと考えていた天才少年剣士相田尚(しよう)五郎(ごろう)は久磨の実弟であった。久磨は師の意を汲んで、両親を説き伏せ、当時は倻吉(やきち)と名乗っていた小五郎を相田家に養子として迎え入れた。
 以来、藩より二百石を賜る馬廻り役を代々仰せつかる相田家の次男坊として、倻吉改め小五郎は剣と学問の鍛錬に励んできた。自らが立派なひとかどの武士となることこそが、我が身を見い出してくれた師匠、また、見ず知らずの百姓の小倅をいきなり息子として迎え入れてくれた相田家の人々への恩に報いることだと考えてきた。
 現在、相田小五郎は柳井姓を名乗り、若き道場主として亡き幹之進の遺志を受け継ぎ大勢の門弟の指導に当たっていた。とはいえ、弱冠まだ二十歳過ぎの若き道場主である。が、若いながらも老成した人柄と、類稀な剣の技を持ち、自分の父親のような年齢の門弟たちからも〝若先生〟と慕われていた。小五郎が年配の門弟たちからの尊崇を受けるのも、ひとえに彼の思慮深さもあったろう。
 小五郎はけして驕ったところがなく、常に年上の門弟より一歩引いていた。剣の師匠として言うべきことは言うが、それ以外の場では格下の若造としてへりくだっている。そんな謙虚さが、古参の柳井道場の門弟たちをして若い小五郎に心酔させていたのだともいえる。
 小五郎より十七も年上でありながら、終始影のように寄り添い、支えてくれる兄久磨の存在も心強いものがあった。久磨は自らは脇役、裏方に徹し、けして表には出ない。しかし、この兄が師範代として脇を固めてくれているからこそ、まだ若い小五郎が曲がりなりにも門弟数十人を数える大所帯である柳井道場を率いてゆくことができるのだ。柳井道場の中には既に門弟歴三十年という人もいる。そんな人たちは久磨とは竹馬の友であり、久磨の存在があるからこそ、小五郎についてきてくれるという面もあったのだ。
 つまり、久磨を仲立ちとして、はるかに年上のかつての兄弟子(あにでし)たちと小五郎が結びつき、彼らがまた小五郎を現在の道場主として認めているということでもあった。むろん、それには小五郎自身の人となりもあったからには違いないのだが、やはり、兄が潤滑油の役割を果たしてくれていることは否めない。
 日々、道場主としての勤めに励む良人の姿を見るにつけ、お香代もまた少しでも良人の力になりたいと思わずにはいられない。柳井幹之進は下男の孫にすぎないお香代を養女にまで取り立ててくれた。〝身分の上下が人を作るのではない〟と普段から広言していたように、生まれや育ちといったものに拘らない磊落で飄々とした人だった。
 そして、良人小五郎にとっても、幹之進は生涯の恩人でもある。大百姓ならともかく、小五郎の実父稲吉(いなきち)は地主からわずかな土地を借りて細々と暮らす小作にすぎなかった。その伜がたとえ二百石とはいえ、藩に仕える譜代の家臣相田家に養子として迎えられ、更に名門柳井道場の跡継ぎとなったのである。剣や軍功で立身できた戦国乱世の世ならともかく、今は天下泰平の世であり、普通では考えられない立身出世だ。
 言わば、夫婦二人ともに、亡き先代の道場主幹之進には言葉に尽くせぬ恩義があった。ほんの一年余りに満たないが、小五郎を迎えてからのわずかな間、柳井家では幹之進を父として、小五郎、お香代と三人が実の親子のように肩を寄せ合って暮らした。早くに実の両親を失い、老いた祖父の手で育てられたお香代にとって、十三で柳井家の養女となり、幹之進を父として暮らした数年は、実の父と過ごしたようなほのぼのとした心温まる時期でもあった。また、幹之進は惚れ抜いた小五郎と添わせてくれた縁結びの神となってくれた人でもある。
 その恩に報いるためにも、良人と力を合わせて父の残した柳井道場をいっそう盛り立ててゆくのが我が務めとお香代は思い定めている。恐らくは、良人小五郎の想いも同様だろう。
 ザッと音がして、お香代はその物音にハッと現実に引き戻された。いつしか、真っ白な毛並みを持つ兎はいずこかへと消えていた。緑の茂みに白い毛玉が吸い込まれてゆくのを最後に見かけた後、辺りは水を打ったような静けさに包まれた。
―行ってしまった。
 お香代は一抹の淋しさを感じながら、兎の消えた方を見つめた。
 小五郎と夫婦となって三年の月日を数えるが、二人の間には子宝は一向に恵まれなかった。
―なに、あまりに仲睦まじいのは、かえって子に恵まれぬというぞ。焦ることはない、小五郎もお香代どのもまだ若いのだ。そのうち、子とは山ほどもできよう。
 義兄の相田久磨などはそう言って笑っているが―、そういう久磨は連れ添って十七年になるという妻寿(ひさ)恵(え)との間に十六になる嫡男隼人をはじめ、末は三歳の菊松丸まで六男三女に恵まれている。
 たまに菓子などを届けに相田家を訪れる度に、お香代は子どもの歓声で賑やかな相田家を見ると、うら寂しいような物哀しいような想いに囚われるのだった。
 もっとも、そんな話は良人にはしない。それでなくとも、小五郎は道場経営の方で多忙を極めているのだし、あまりに忙しいため、子のおらぬことなどに淋しさを感じている暇はないようであった。お香代にしてみれば、小五郎に余計な負担はかけたくない。
 確かに義兄の言うことにも一理あるかもしれない。小五郎はまだ二十一、お香代は十八の若さであってみれば、まだまだ子宝を諦めるには早すぎるというものだろう。そう思い、子宝に効験のある社寺があると聞くと、一人でひそかに詣でて気を慰めたりしていた。
 そろそろ帰ろうと思い、お香代は駕籠を抱え立ち上がった。兎にやってしまったゆえ、苺は殆ど無くなってしまった。しかし、そんなことで厭な顔をする良人ではない。
 そのときであった。馬のいななきが後方で聞こえた。ハッとして振り返る。
 逆光になってよく見えなかったけれど、眩しい陽光を背に、馬が高々と両脚を跳ねあげているのが見えた。
 刹那、身体中の血が逆流するような恐怖をを憶える。このままでは、まともに馬の蹄に当たり、お香代の身体ははるか遠方に撥ね飛ばされてしまうだろう。
 もう、駄目。思わず覚悟して両眼を閉じた。
 その時、張りつめた沈黙をつんざくようにして、笑い声が響き渡った。
 ギュッと眼を瞑っていたお香代はゆっくりと眼を開く。お香代のわずか手前で、見事な白馬が荒い息を吐きながら止まっていた。馬上に跨っているのは二十代半ばほどの若者か。深い藍色の着物に、朽ち葉色の袴を穿いた身なりは随分と身分のある武士のようであった。
 若い男はまだ高笑いしながら、愉快げにお香代を見下ろしている。
 そのあまりに人を見下した傲岸な態度に、お香代はいっとき恐怖を忘れ、憤りさえ憶えた。すんでのところで馬が止まったから良いようなものの、もし馬が止まらなければ、お香代は今頃は間違いなく馬の蹄に蹴られて死んでいただろう。
 いや、この状況では、助かった方が不思議というほどの切迫した状況であったはずだ。現に、馬が止まっている位置は、お香代が立っているその場所のまさに数歩手前だった。
作品名:鈴~れい~・其の一 作家名:東 めぐみ