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鈴~れい~・其の一

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序章
  ~萌(もえぎ)風(のかぜ)~

 透明な陽差しが真っすぐ地面に差し込んでいる。ふと顔を上げれば、鬱蒼と隙間もなく生い茂った緑の葉と葉が重なり合っている。そのほんのわずかな間から、透き通った早春の陽差しが差し、地面を照らしている。地面に落ちた葉影が繊細な模様を描き、やわらかな風が吹き渡る度に、その模様がゆらゆらと揺れる。
 地面に投げかけられた光の網がちろちろと木漏れ陽に揺れる様が眩しく、お香代は眼をしばたたく。少し離れた茂みの向こうに、ちらりと赤いものがよぎる。お香代は眼を見開き、そろそろと近付く。よくよく見れば、緑の葉陰に赤いつぶらな実が鈴なりになっていた。
 お香代は歓声を上げ、たわわに実った木苺を眺める。しゃがみ込み、夢中でひと粒ひと粒、紅瑪瑙のような実を指でつまんだ。ひと口だけ頬ばると、何とも甘酸っぱい香りが口中にひろがる。もうひと粒だけと言い訳のように自分に言い聞かせながら二個目を食べると、更に幸せな気分になった。
 脚許でガサリと物音がして、漸く我に返った。視線を動かした先には、白いふわふわとした毛の塊が蹲(うずくま)り、やはり、お香代と同じように相手のことなぞ眼に入らぬ様子で野苺を囓っている。
―あ、兎。
 お香代は微笑むと、既に一杯になった自分の駕籠からひと粒だけ摘(つま)み、兎に差し出す。小さな兎はきょとんとした様子でお香代を見上げている。最初は警戒している様子で手を出そうとしなかったけれど、やがて恐る恐るといった感じで前足を差し出した。野兎が野苺を受け取り、口に放り込む。
「可愛いのね。お前は男の子、女の子?」
 お香代が子ウサギを覗き込むようにして問いかけると、兎
は黒い瞳をくるくると動かした。その間もせわしなく口を動かし、
苺をさも美味そうに食べることも忘れない。
 お香代が次の苺をし出すと、子ウサギは嬉しげにすぐに口にくわえる。
 お香代も兎を見ながら、駕籠の中の苺を頬張った。
「お前は随分と食いしん坊なのね。それとも、慌てん坊さんなのかしら」
 愛らしい子ウサギの仕草を眺めていると、自然に笑みが零れてくる。
「もっとも、私もお前のことばかりは言えないわ。折角一杯になった駕籠がもう、こんなに少なくなってしまったものねえ」
 お香代は笑いながら、苺が半分近くになってしまった駕籠と子ウサギを交互に眺めた。
 動物の子どもでさえ、これほど愛らしいのだ。人間の子どもであれば、さぞ可愛いことだろう。
 お香代の美しい面から、微笑みが消えた。
―私には、どうして赤ちゃんが授からないのかしら。
 良人の小五郎と所帯を持ったのは、もうかれこれ三年前になる。小五郎が通っていた町の道場の近くで、たまたま趨(はし)り雨に遭って難儀していた小五郎に傘を貸したのが二人の縁(えにし)の始まりであった。
 お香代は道場主の柳井(やない)幹(みき)之(の)進(しん)に仕える下男壱助の孫娘であったが、壱助が五年前、齢六十六で亡くなった後は、幹之進の養女となった。もう十数年前に妻女を亡くし、実子のなかった幹之進はお香代の利発さを見込み、いずれは道場一の遣い手であり師範代をも務める相田(あいだ)小五郎(こごろう)影(かげ)綱(つな)と娶せる所存であった。
 偶然にもこの二人が恋仲となったことから、話はとんとん拍子に進んだ。それまでにも時折見かける小五郎の凛々しい姿に、お香代は憧れを抱いていたし、小五郎の方もまた白い襷掛け姿で庭掃きに精を出すお香代に惹かれていた。
 もっとも、咲き匂う竜胆の花のような風情のお香代は、幹之進の大勢の門弟たちの憧れの的でもあったのだ。そして、道場一、いや、この木檜(こぐれ)藩一の遣い手とも呼び声の高い小五郎に、幹之進がいずれ跡目を譲りたいと思案しているのは明白であり、幹之進が養女とこの優秀な弟子を娶せると言い出したときも、誰もがあっさりと納得したものだった。
 実際、精悍でありながらも優美さを失わない美男の小五郎と、この界隈で美貌として知られたお香代は実に似合いの夫婦(めおと)雛のようであった。二人の祝言を見届け、若夫婦が新しい暮らしに馴染んでゆくのに安堵したかのように、幹之進は心臓の持病が悪化して去年の冬が越せずに亡くなった。五十三歳であった。
 若かりし頃、十年に一度の木檜藩の御前試合で勝ち抜き、見事藩内一の剣士の栄誉を得た稀代の英雄の生き方は実に地味なものだった。御前試合の勝者に与えられる藩からの報奨金も藩主の武芸指南役という地位もすべてを辞退し、それまでどおりに町の一道場主として、多くの後進育成に心を砕いて生きたのだ。
 相田小五郎は元は武士ではなく、農民の伜である。小五郎が幹之進に見い出された逸話があった。ある日、幹之進が出かける際、高弟の一人が伴をしていた。主従が徒歩(かち)で人気のない道を歩いていた時、前方で数人の子どもが小競り合いをしている。どう見ても多勢に無勢、たった一人の子に数人の子どもたちが寄ってたかって殴りかかっている。
 しかも殴られているのは五歳ほどのまだ小さな子で、多勢の方はやられている子よりはるかに身の丈も横幅も大きい十歳前後の大きな少年たちばかりだ。
 幹之進の後に控えていた荷物持ちの若者がすぐに止めようとした。それを、幹之進が咄嗟に制した。
―待ちなさい。
―ですが、先生。あれでは、あんまりです。見れば、やられっ放しの子どもはまだ頑是なき幼児ではありませぬか。しかも、弱き農民の子を仮にも武士の子が苛めるとは許しがたい。
 幼子は確かに粗末な継ぎだらけの着物を纏った農民の子である。対して、多勢の面々は軽輩ではあれども、れきしとした木檜藩の藩士の子弟たちであった。中には道場に通ってきている見憶えのある顔も混じっている。
―まぁ、見ていなさい。本当にあの小さな子がやられているだけの弱き者かどうか、直に判ることだ。
 幹之進は落ち着いた口調で言い、懐手をしてその場に佇んでいた。後ろの弟子もやむなく師匠の言に従う。
 が、幹之進の言葉の意味するところはすぐに知れた。
 勝敗はいとも呆気なくついた。
 たった一人で立ち向かっていた農民の子は、何と数人の大柄な年上の少年たちをすべてたった一本の棒きれで見事打ち据えて見せたのだ。鮮やかな一本勝ちであった。
―先生、あの小僧、ただ者ではございませんな。
 弟子の言葉に、幹之進は満足げな面持ちで頷いた。
―光り輝く石の原石はどこに転がっているか判らぬ。いや、むしろ、このような野や路傍にこそ、得がたき剣士の卵が見つかるものかもしれぬ。儂(わし)は常々、そなたたち門弟に言い聞かせてきたであろうが。身分は人を作るのではなく、その人が内面に持つものや努力して培ってきたものこそがその人を作るのだと。あれは磨けば光る玉になるぞ。
 そのときの幹之進の顔は実に嬉しげであったという。その前年、幹之進は長年手塩に掛けて可愛がってきた愛弟子の一人を病で失ったばかりであった。幼いときから見い出し、いずれは養嗣子にもとゆく末を嘱望していた愛弟子の死に消沈していた幹之進が久々に見せた晴れやかな笑顔であった。
作品名:鈴~れい~・其の一 作家名:東 めぐみ