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約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅲ

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 一度だけ、崔尚宮の遣いで繍房(スボウ)に行く途中、王を乗せた輿とすれ違ったことがある。繍房とは、宮廷において刺繍を掌る部署で、後宮内で行われる刺繍はすべて、ここに勤める女官たちが行う。
 輿に乗った王を守るように前後を女官、内官が固めるのはいつものことだ。莉彩は遠くから行列を見かけ、慌てて端へ寄り頭を垂れた。
 いよいよ王の輿が真正面を通り過ぎる瞬間、ほんの少しだけ胸が高鳴ったのは確かだ。
 だが、王はまるで最初から、その場に莉彩などいないかのように平然と前を通っていった。ちらりと見ようともしなかった。
―私ったら、馬鹿ね。何を期待していたの?
 莉彩は、遠ざかる王を頭を下げて見送りつつ、思わず目頭が熱くなった。
 王はもう本当に、遠い人になってしまったのだ。これで心おきなく現代に帰れるはずなのに、莉彩はその時、涙が止まらなかった。
 満月のその夜、莉彩は少し早めに床に入った。その夜に限って、この時代に来てからの色々な出来事が波のように次々に押し寄せてきて、何故か眠れない。
 それでも、悶々としている中に、いつしか浅い微睡みに落ちたようだ。
 莉彩はハッと眼を見開いた。
 眼を凝らしてみる。戸の外に蒼い光が漂っている。身体を起こして外を見ると、既に夜明けが近いようだ。
 風が吹いているのか、戸がカタカタと小さな音を立てて軋んでいる。布団を頭まで被ってみるけれど、やはり眠れない。
 起き上がって、床に座る。明け方の冷気で身体中が冷える。何か羽織ろうと思い立ち上がるが、身体中の力が抜けてしまい、くずおれるようにそのまま褥の上に座り込む。
 それでも、床から出て、部屋を横切った。
 両開きの戸を開けて廊下を真っすぐに歩くと、直に抜き抜けの廊下に至る。女官たちはまだ深い眠りの底にいるらしく、どの部屋からも物音一つしない。
 莉彩は吹き抜けの廊下に佇み、空を仰いだ。
 薄蒼い空に浮かぶのは、丸々とした月。
 吐き出す息が白く凍てついた大気に溶け出してゆく。なおも月を眺めていたその時、唐突に閃いた。
―新しき年の初めの月、最後に月の満ちる夜。
 突如として、あの暗号のようなフレーズの意味が浮かび上がってきたのだ。
 〝新しき年〟というのは、〝新年〟。更に〝初めの月〟というのは〝最初の月〟、つまり〝一月〟、〝最後に月の満ちる夜〟というのは文字どおり〝夜空に浮かぶ月が最後に満ちる夜〟を意味するのではないか。
 つまり、これらを繋げ合わせると、〝新しい年になって初めての月の最後に月の満ちる夜〟となる。
 莉彩は確信した。
 あの老人は、こう言いたかったのだ。
―今年(新しい年)の一月の最後の満月の夜。
 莉彩は息を呑んだ。
 昨夜から今朝にかけては満月、まさしく一月最後の満月の夜だ!
 莉彩は狂ったように走って部屋に戻った。
 急いで箪笥の引き出しの奥から、この時代に来た日に着ていた服を取り出す。カットソーやチュニック、スカート。どれもお気に入りのものばかりだ。
 白い夜着から、それらに着替え、仕上げに髪を手早く結い上げリラの花の簪を挿した。 転がるように部屋から出て、再び小走りに廊下を辿り、吹き抜けの廊下に出る。
 躊躇っている暇はなかった。時間は刻一刻と流れている。このチャンスを逃せば、今度はいつ帰られるのか判らないのだ。
 莉彩はローヒールのパンプスに脚を突っ込む。これもむろん、現代から履いてきたものだ。そのまま廊下から庭に降り、一目散に走った。
 殿舎と殿舎の間を通り抜け、宮殿をぐるりと取り囲む塀の傍まで来る。途中で警備兵たちとすれ違いそうになったが、危ういところ、物陰に身を隠して難を逃れた。宮殿は国王の居城であるから、当然ながら、国王を守るために昼だけでなく夜間も警備兵が常駐している。が、女官ともなれば、警備の手薄な箇所くらいはちゃんと心得ているのが常識だ。
 莉彩は高い塀を見上げ、今度は迷わず塀に手を掛けよじ登った。スカートを穿いていることなど、この際気にしている場合ではない。
 てっぺんまで上ると、〝えいっ〟と勢いをつけて思い切って着地を決める。
 後はそのまま、後ろを振り返ることなく走った。
 走りながら、莉彩は空を見上げる。
 大丈夫、まだ満月(つき)は空にある。
 莉彩は夢中で、真冬の早朝を駆け抜けた。
 町に出て、いかほど走ったろうか。
 莉彩の脚が止まった。白い息を吐きながら、肩を上下させて周囲を眺める。
 辿り着いたのは、莉彩が四ヵ月前、初めてこの時代に飛んできた日に出現した場所だ。
 不思議な老人と遭遇したあの場所である。
 つい二日前にも、ここであの老人と再会し、例の暗号のようなフレーズを教えて貰ったのだ。
 確か、あの人はこう言った。
―ここから遠くない場所に、橋がある。そこにこの簪を挿して、おゆきなさい。
 莉彩は再び走った。
 目指す場所は何となく判っていた。実際には行ったことはないけれど、面妖なことに、あの老人が言っていた場所がどこなのか、どんなところなのか具体的に思い描くことができた。
 ほどなく、昼間は賑やかな往来が途切れ、町外れに出た。
―この風景は―。
 莉彩は息を呑んだ。今、眼の前にひろがる風景は、あまりにもあの場所に似ていた。すべての始まりとなったあの場所、莉彩が慎吾を待っていた橋のたもとの周辺と酷似している。
 その時、少し後ろで聞き憶えのある深い声音が聞こえた。
「やはり、行ってしまうのか、私をたった一人、置き去りにして」
 莉彩の身体が強ばる。
 逢いたいけれど、逢いたくない人。
 帰りたいけれど、帰りたくない時代。
 いや、この瞬間にも、私の心は、この男をこんなにも求めている。
 それは、怖ろしいほどの渇望だった。
「よく、ここがお判りになりましたね」
 無理に素っ気ない口調で言うと、王が含み笑った。
「信頼できる内官の一人に、そなたの動向を見張らせていたからな。何か動きがあれば、直ちに連絡が来る」
 それは、大妃から莉彩を守るためでもあったのだけれど、王は敢えて莉彩に告げなかった。
「どうしても帰るのか?」
 莉彩は言葉にはせず、頷いた。
 次の瞬間、莉彩の身体は背後から逞しい腕に抱きしめられていた。
「莉彩、行くな」
「何故、今になって、そのようなことを仰せになるのですか? ふた月もの間、私をずっと無視し続けておいでになって、今更」
 莉彩の眼に涙が溢れた。
「それとも、また偉い方の気紛れで、私をからかってみたくなったのですか?」
 莉彩の言葉に、王が声を固くした。
「そのようなことを申すのは止せ」
「殿下は、もう私なんかお忘れになったのでしょう? だから、私を無視なさっていたのではないですか」
 莉彩の眼からとうとう大粒の涙が溢れ出し、莉彩の腰に回した王の両手にポトリと落ちた。
「莉彩、泣いているのか」
 王の問いにも、莉彩は応えない。
 突然、王が莉彩の身体を自分の方に向かせた。両肩に手を置いて、顔を覗き込んでくる。