約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅲ
「私が何故、そなたに近づかなかったか、そなたに判るというのか? どれだけ逢いたかったか、この胸にこうして思いきり抱きしめたかったか。逸る気持ちをじっと抑え込んでいたんだぞ? そなたはいずれ、元の時代に帰るべき身で、そなた自身も帰りたがっている。それに、私がこれ以上、そなたに拘わり続ければ、大妃はまた、そなたを傷つけようとするだろう。私さえ我慢すれば、大妃とて、そなたを無用に傷つけることはない」
「―殿下」
莉彩の声が、震えた。
「だが、私は、最後の最後まで未練な男のようだ」
王の声もまた、かすかに震えていた。
莉彩はそっと結い上げた艶やかな黒髪から簪をそっと抜き取った。
「殿下、この簪をよくご覧になって下さい。花びらが五枚ございますよね? リラの花は普通は四枚しかないのですが、稀に五枚花びらのついたものが見つかるのです。五弁花はハッピーライラックと呼ばれ、幸運の象徴としてお守りになるのだそうですよ」
王に差し示しながら、説明する。
泣くまいとしても、ともすれば声が震えそうになってしまった。
「そういえば、この簪を買ってきてくれた父が言ってました。簪を売っていたお店のお爺さんが、この簪は昔、朝鮮のさる王さまのお妃さまが持っていたって。引き離された恋人同士を必ずまた再会させてくれる不思議な力を秘めているそうです」
新たに滲んできた涙をまたたきで散らし、莉彩は無理に微笑みを作った。
「それは奇遇だな。もしかしたら、莉彩と私は前世でもこうしてめぐり逢い、莉彩は私の妃だったのかもしれない。そのような能力(ちから)を持つ簪ならば、いつか必ず我らを再び引き合わせてくれるだろう」
微笑む王の瞳にもまた光るものがあった。
「日本では、四月にはリラの花が咲きます。リラの花の咲く頃にまた、お逢いしまょう」
それは多分、永遠に果たされることのない約束。でも、莉彩はその時、王にそう言わずにはいられなかった。
「満開に咲くリラの花―、眼に見えるようだ―。莉彩、きっとまた、ここで逢おう。私は待っている。いつまでも、この場所でそなたを待ち続ける」
王の瞳は遠かった。もしかしたら、その瞬間、王の眼には、本当に満開に咲き誇るリラの花が見えていたのかもしれない。
莉彩と王の視線が絡み合う。
語るべき言葉は夜空を飾る星の数よりもあったけれど、今はもう、何も言えない二人だった。
「十年後、この場所で必ず逢おう」
「それまで、しばらくのお別れです」
莉彩の言葉に、王は胸を衝かれたようだった。
王は長い間、何かに耐えるような表情で眼を瞑っていた。
「莉彩」
漸く眼を開いた王が手を伸ばして抱きしめようとしたその時、莉彩の身体が揺らぎ始めた。
王の整った貌に愕きの表情がひろがった。
「莉彩ッ」
莉彩の身体は次第に薄くなり、輪郭がぼやけてゆく。
その可愛らしい顔が哀しげに微笑んでいた。やがて、莉彩の身体は完全にその形を失った。
王の眼の前で、莉彩はまさに霞のように消えたのだった。
「莉彩―」
王が最愛の想い人の名を呟く。
「嬉しかったぞ、大妃の前でああもはっきり好きだと言われて。あんなときなのに、私はそなたに慕われていると知って、本当に嬉しかったのだぞ、莉彩」
一条の陽差しが雲間から差してきた。
王がふと空を仰ぎ見ると、生まれたばかりの太陽が今日初めての光を地上に投げかけている。
月は、既に空のどこにも見当たらなかった。
莉彩、そなたは、真に帰ったのだな。
私の知らない時代へ。
二度と手の届くことのない、遠いはるかな時の向こうへと。
王の頬にゆっくりと涙が流れていった。
どれくらい時が経ったのか。
次に莉彩が自分を取り戻した時、彼女はしんと静まり返った橋の周辺に立っていた。
どうやら今は夜らしい。
見上げると、蒼ざめた満月が頼りなげに空に浮かんでいる。
五百五十年前にも見た満月、でも、あの夜、空に浮かんでいた同じ月ではない。
莉彩は茫然と周囲を見回す。
「帰ってきたんだわ」
一体、自分が姿を消してから、どれほどの時が流れたのだろう。
視界に入る景色はすべて見憶えがあり、どこといって時を飛ぶ前と変わりないように見える。
莉彩は真っすぐ前を見つめ、足を踏み出す。
これから始まる、彼女の新しい〝歴史〟を作るために。
愕いたことに、莉彩が朝鮮王朝時代に行っていたのは、こちらの時間にすれば、わずか十日余りの出来事だった。あちらの世界では、十月中旬から年明けの一月まで四ヵ月近くも流れていたというのに、どうやら、時間の流れるスピードは、あちらとこちらでは微妙な差があるようだ。
高校卒業後、莉彩は北海道の女子大へと進学した。初めて好きになったひとが別れ際に見てみたいと言ったリラの花を見るために、北海道へゆくことを望んだのだ。
当時付き合っていた和泉慎吾とは、もう数年間、逢っていない。莉彩から別離を一方的に告げる形になってしまったけれど、あれで良かったのだと思っている。別に好きな男がいるというのに、どうして慎吾と今までのように付き合ってゆけるだろう?
十数日も行方不明になっていた少女が突然帰還したことは、結構な話題になった。警察にも呼ばれ、莉彩は両親に付き添われて行ったけれど、何も憶えていないの一点張りで通した。結局、何者かに拉致され解放されるまでの監禁生活への恐怖が原因で、記憶喪失になってしまったのだ―と結論づけられた。
莉彩が突如として消えてしまったことについては、やはり目撃者である慎吾とセダンの運転手の錯覚ということで片付けられた。科学捜査を第一にもって任じる日本の警察が、SF映画の中でならともかく、現実にそのような超常現象が起こり得るはずがないと頑として認めなかったのは当然だった。
が、一方で週刊誌などでは〝不明女子高生、奇蹟の生還、現代の怪奇!〟などと、いかにも怪しげな記事が掲載されたこともあった。何と、莉彩がUFOに乗った宇宙人に連れ去られたという全く馬鹿げた内容のもので、莉彩自身も笑ってしまったほどだ。自宅にも何度かその手の雑誌記者が押しかけてきたものの、両親がすべてシャットアウトしてくれたお陰で、莉彩は興味本位の視線に直接晒されることはなかった。
二十一世紀の現代社会には日々、様々な事件が起こる。人々はいつまでも一つの話題に気を取られていることはなく、莉彩の失踪事件もまた、直に忘れられ口の端に上ることもなくなっていった。
今、二十歳になった莉彩は、長いストレートヘアを風に靡かせながら、ゆっくりと砂利道を歩いていた。
道の両側にはリラの樹がずらりと植わっていて、この並木道は観光名所としても名を知られ、〝リラの小道〟と呼ばれている。
―莉彩、きっとまた、ここで逢おう。私は待っている。いつまでも、この場所でそなたを待ち続ける。
十年後、必ずこの場所で逢おうと言った男。
莉彩の耳奥で懐かしい男の声がありありと甦る。
私の心を揺さぶるたった一人のひと。
莉彩は空を見上げ、四月の陽光に眩しげに眼を細める。
莉彩の眼から澄んだ雫が溢れ出し、白い頬をころがり落ちていった。
作品名:約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅲ 作家名:東 めぐみ