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約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅲ

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 最初は自分のことだとは思わなくて、振り向きもしなかったのだが、呼び声は更に追いかけてくる。
「お嬢さん、お嬢さん」
 そこで、莉彩は漸く立ち止まった。
 振り向くと、小柄な痩せた老翁が立っている。
「あなたは、あのときのお爺さんですね?」
 何故か莉彩は、とても懐かしい―まるで自分の祖父に再会したときのような気持ちになった。
 そう、今、眼前にいるのは、この時代に初めてきた日、莉彩を荷馬車で轢きそうになった商人だった。
「随分と浮かない顔をなさってますな。そのようにぼんやりと天下の往来を歩いていては、また車や馬に轢かそうになってしまいますよ」
 老人は細い眼を更に優しげに細めている。
 老人の口調もまた、久しぶりに逢う孫を気遣うような感じだ。
 莉彩は思い切って言った。
「丁度良かった、お爺さん。私、あなたにどうしてもお訊ねしたいことがあるんです」
「フム、何でしょうかの」
 ここは町中、人の行き来も多い。二人は通行人の邪魔にならぬよう、脇へとよけた。
「お爺さんは、あの時、私に言いましたよね」
―はるかな時を越えておいでになったお優しいお嬢さま。どうか、今、御髪に挿している簪を大切になさいますように。その簪は、お嬢さまとあちらの世界を繋ぐための大切な鍵にございますよ。
 莉彩は、頭に手をやった。今日は、あのリラの花の簪を挿している。劉尚宮に分相不相応だと咎められて以来、宮殿で身につけたことは一度としてなかった。今日は町に出かけるというので、少しお洒落をしてきたのだ。
 莉彩は簪を結い上げた髪から抜くと、老人に差し出した。
「これを見て下さい」
 老人は莉彩から簪を受け取ると、〝どれどれ〟と呟きながら、じいっと眺めた。
 それまで優しげな光を湛えていた細い眼が途端に鋭さを帯びる。
 上方に掲げるようにして太陽の光にかざすと、花びらの部分にはめ込まれた石(アメジスト)が燦然と輝く。老人は更に簪を引っ繰り返したり、また元に戻したりと念入りに眺めた。
「お爺さんは、観相もなさると聞きました。あなたは、私が時を越えてこの時代に来たことも知っているのでしょう? だから、あの時、あんなことを私に言った―」
―はるかな時を越えておいでになったお優しいお嬢さま。
「あなたは、この簪がこの時代と私のいた時代を繋ぐ大切なものだと言いました。それはつまり、この簪を使えば、私は元の時代に戻れるということなのではないかしら」
 老人は黙って莉彩の言葉を聞いていたが、やがて、おもむろに顔を上げた。
「お嬢さん。儂は、お前さまにもう一つ、大切なことを言うたはずですぞ」
―今度、めぐり逢われるお方の手を二度とお放しなさいますな。折角、天が再び引き合わせて下されるのですから、そのご縁を大切になさって下さい。
 莉彩の中で、あのときの老人の言葉が甦った。
「そちらは、どうなさるおつもりですかな? このまま、大切なお方の手を放し、お一人でお帰りになっても悔いはないと?」
 莉彩は何か言おうとして口を開きかけ、押し黙った。
「人の縁(えにし)とは実に摩訶不思議なもの、厄介なものでしてなぁ、強い縁で結ばれておる者同士というのは、たとえ、どれだけ離れようと、互いに強く求め合い惹かれ合わずにはいられないのです。まっ、業というか宿命のようなものですな。当人のどちらかが意図的にその縁を絶ちきろうとしても、いずれまた、強い力で引き寄せられ、めぐり逢うことになる。お嬢さんご自身がよくよくお悩みになって出されたものであれば、儂はその結論については何も申しますまい。じゃが、今日、私の申し上げたことだけは、よく憶えておいて下され」
 老人の皺深い眼に憐憫の情が浮かんでいるように見えたのは、莉彩の気のせいであったろうか。
 莉彩は、どうしても訊ねておかねばならないことを訊ねた。
「お爺さん、私が元の時代に帰るには、一体どうしたら良いんでしょうか。この簪が重要な鍵だとは判ったけれど、どうやって、これを使えば良いか判らないんです」
 莉彩は自分の手に戻ってきた簪を眺めながら言った。
「新しき年の初めの月、最後に月の満ちる夜」
 ふいに老人の口から洩れたのは、まるで何かの暗号か呪文のような短いフレーズだった。
 たっぷりとした白い眉の下の眼が忙しなくまたたく。
「ここから遠くない場所に、橋がある。そこにこの簪を挿して、おゆきなさい」
 老人はそれだけ言うと、後はもう莉彩のことなど忘れたかのように、さっさと一人で歩き始めた。
―新しき年の初めの月、最後に月の満ちる夜。
 莉彩は、たった今、耳にしたばかりの言葉をなぞってみる。
 と、ハッと我に返った。
 これだけでは、何のことだか判らない!!
「お爺さんッ、待っ―」
 しかし、呼び止め、追いかけようとしたときには、既に小柄なその姿は人混みに紛れ、見えなくなってしまっていた。
―ああ、行ってしまった。
 莉彩は空気の抜けた風船のように、その場にくずおれた。
 道端にうずくまる莉彩に、通りすがりの親切な女が気遣わしげに声をかけてくれる。
「どうしたの? 気分でも悪くなった?」
 顔を上げると、ふっくらとした丸顔の女が優しげな笑みを浮かべて覗き込んでいる。
 年の頃は四十歳くらい、ちょっと莉彩の母に似ていた。身なりからして、町家の女房だろう。
「いいえ、大丈夫です。ご心配頂いて、ありがとう」
 莉彩が笑顔で応えると、女は安心したように頷き、〝気をつけてね〟とひと声残して去っていった。
 莉彩は緩慢な動作で立ち上がった。
 それから宮殿までどこをどうやって歩いて帰ったのか、よく憶えてはいない。それほど、莉彩は我を失っていのである。
 
 それから更に幾日か経ったある夜。
 その日は、月が完全に満ちるはずだった。
 もっとも、朝から晩まで忙しく立ち働いている莉彩には、月の満ち欠けなど、あまりたいした問題ではない。
―新しき年の初めの月、最後に月の満ちる夜。
 あの不思議な老人は確かにそう言った。だとすれば、莉彩が現代に戻るためには〝月の満ち欠け〟が大切なキーワードになってくるのだろう。その程度は莉彩にでも推測できるが、では、あの謎の暗号のようなフレーズをどのように解読するのかという点については、さっぱり判らない。
 あれからも色々と考えてみたのだけれど、いっかな解き明かせないのだ。
 一日一日と満ちてゆく月を見上げながら、毎夜、焦燥感と絶望に駆られる夜が続いていた。
 王が莉彩への関心を失ったお陰か、大妃からの嫌がらせもふっつりと止み、今は穏やかな日々を送っている。莉彩の今の生活は、ごく普通の宮廷女官のものだ。
 昼間は、まだ良かった。年の近い女官たちと様々な―お洒落や甘いお菓子、それに格好良い若い内官(宦官)の話に打ち興じ、時折、些細な失敗をしては崔尚宮に叱られる。
 その点は現代も六百年近く昔も、全く変わらない。若い女の子が集まれば、大体はそのテの話題になると相場が決まっているらしい。
 しかし、夜になって一人、自室に戻ると、寂寥感が一挙に押し寄せてくる。ホロホロとミミズクが遠くから啼いているのを聞いていると、あまりの淋しさと心細さで涙が溢れるのだった。