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約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅲ

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「莉彩は、その男とは別れるとはっきり申しました。ゆえに、何の問題もございませぬし、私は莉彩の言葉を信じます」
 王は腕の中でぐったりとする莉彩を切なげに見つめた。
「母上はまた、私に怖ろしい罪を犯させようとなさるのですか?」
 王の言葉に、大妃は眉をひそめた。
「それは、いかなることにございしまょうや」
 王は曇りのない眼で大妃を真っすぐに見つめる。
「この十年間、私は愛する女性を守れなかった後悔に苛まれてきました。私が何も知らぬとお思いですか? 根も葉もなき讒言で私の心を惑わし、あらぬ疑いを抱かせ、賢花に毒を与えるようにと勧めたのは他ならぬ母上、あなたでしょう」
「何をたわ言を仰るものやら、何ゆえ、十年も前の事件を今になって蒸し返すのかは存じませぬが、殿下、仮にも殿下にお仕えする淑儀が他し男と通じたなどとは王室の恥にございます。伊氏の名など、耳にするのも穢らわしい。あの身持ちの悪い女は、殿下を裏切るという大罪を犯したのです、死んで詫びるのは当然のこと」
「それは、あまりの言葉です。母上は、伊淑儀を二度、辱めるおつもりか」
 王の瞳に蒼白い焔が燃え上がった。
 昏い昏い憎しみの焔をその眼に宿し、王は莉彩を抱きかかえた。
「あなたがそこまで仰せなら、私ももうあなたを母上とは呼ぶまい。あなたはかつて側室であった私の母を苛め抜き、母は失意の中に亡くなった。伊淑儀も母も言ってみれば、あなたに殺されたようなものだ」
 静かな声音で断ずると、王はそのまま踵を返す。
「今のお言葉を宣戦布告と受け取ってよろしいのですね、国王殿下」
 背後から大妃の声が響いた。
 入り口の扉が両側から音もなく開く。
 廊下に控えていた女官が開けたのだ。
「どうぞ、ご自由に。あなたがそのおつもりなら、私も闘うまでにございます。大妃さま」
 王は冷えた声で言い残し、扉は再び王の後ろで静かに閉まった。
 大方、大妃が腹を立てて花瓶か湯呑みかをぶつけたのだろう。扉にガチャンと陶器の当たって割れる音が派手に響いた。
「勝手になされば良い。私の母上(オモニ)だけではなく、幼かった私をも憎み、最後まで私が世子になるのを反対していたのもあなただった―。可愛げのない子どもだと何度、きつく叱られたことか」
 王が呟き、フッと笑った。
 一瞬、背後を振り返った王の双眸は愕くほど冷え冷えとしていた。
 王は意識を失ったままの莉彩を腕に抱き、急ぎ足でその場から歩み去った。

【約束】

 それから、ふた月が過ぎた。
 莉彩が大妃から鞭打たれた傷もすっかり癒えた。今でもうっすらと紅く痕が残っているけれど、痛みは全くない。
 あの後、莉彩の脚に受けた傷は化膿し、かなり酷いことになった。王がすぐに宮廷お抱えの尚薬(医師・サンヤク)を呼び、手厚い治療を施したお陰で事なきを得たものの、むち打たれた部分が水ぶくれとなり、火傷をしたような状態になってしまったのだ。
 回復には刻を要し、一時は高熱を発して尚薬に難しい表情をさせたほどだった。王はその間、ずっと莉彩の傍に付きっきりだったという。
 ―というのも、肝心の莉彩は意識を失っていて、その間のことは一切記憶にない。
 生死をさまようほどの危地を脱したのは、十日余りも経ってからのことで、意識を取り戻した時、既に王の姿はどこにもなかった。
 それからというもの、王は意識的に莉彩を避けているようだ。もっとも、莉彩の居室と王の住まいである大殿はかなり離れているし、莉彩のような下っ端の女官風情が王の尊顔を拝することなど現実には滅多とない。
 恐らく、王が莉彩から興味を失ったか、あるいは義母である大妃と争ってまで愛する価値のない女だと諦めたかのいずれかに相違ない。
 莉彩には哀しいことではあったが、それはそれで致し方ないともいえた。莉彩は王にも告げたとおり、この時代にいるべき人間ではない。できることなら、王の傍にはいない方が良いのだ。そう思って自分を慰めようとしても、どうしても心にぽっかりと大きな穴が空いたようで、莉彩は夜になると布団を頭からすっぽり被って泣いた。
 その年も終わり、新しい年が来た。
 そんなある日、莉彩は実に久方ぶりに町に出た。崔尚宮のお遣いで近隣の寺院までお詣りにゆく―いわば代参ではあったが、数ヵ月ぶりに宮殿の外に出るとあって、知らず心は浮き立った。ついでに養家にも寄ってくると良い―と、崔尚宮は臨尚宮への贈物まで持たせてくれた。莉彩としては臨尚宮に逢いたいのはむろんだったけれど、臨家を訪問するということは即ち、あの臨内官夫人にも逢って挨拶するということでもある。それは正直、気が進まない。
 が、臨尚宮には色々と相談したいこともあり、参詣を終えた後、崔尚宮からのことづけ物を大切に抱え、臨家の屋敷を訪ねた。道には不案内だからと、一緒にきた朋輩女官とは臨家の門前で別れ、別行動を取った。
 ところが、生憎と臨尚宮は留守で、近くの孫大監(ソンテーガン)の屋敷まで出かけているということだった。孫大監は現在、左議政の地位にある高官で朝廷においても重きをなしている。
 臨淑妍がこの日、孫大監の屋敷に出向いた用件がよもや自分に拘わりあろうとは、この時、莉彩は夢にも考えていなかった。
 淑妍は莉彩を孫大監の養女にして欲しいと頼みに出かけたのである。この頃から、淑妍の脳裡には莉彩を徳宗の正式な側室、あわよくば中殿にという目論みがあった。
 莉彩を権力者の養女にするというのは、まずそのための布石だった。莉彩本人がこの計り知れない計画を知るのは、もっと後のことになる。
 淑妍に逢えずに落胆したものの、臨夫人に逢わないわけにはゆかない。こちらは、ちゃんと在宅していた。臨夫人に挨拶した後、顔見知りの侍女頭に崔尚宮から預かった品―到来物の珍しい玉の首飾りらしい―を渡し、臨家を辞した。
 臨夫人は相変わらず冷淡で、取りつく島もないといった感じだ。
―あまり宮殿で騒動をお起こしなされませぬように。我が家門の恥ともなりますゆえ。
 どうやら臨夫人にまで、莉彩が大妃に呼び出されて鞭打たれたのは知られているらしい。取り澄ました顔でちくちくと皮肉を言われ、莉彩は半刻ほど後、臨夫人から解放されたときには心底ホッとした。
 宮殿への帰り道、莉彩は懐かしい場所を通りかかった。そこは、莉彩がこの時代に初めて来た日、最初に辿り着いた場所だった。四ヵ月前のあの日、莉彩は二十一世紀の日本から五百五十年前の朝鮮へと時を飛んだ。
 たった四ヵ月しか経っていないのに、随分と時が流れたように思えてならない。着慣れない感じがしていたチマチョゴリにも慣れたし、戸惑うばかりだった宮殿での生活、女官としての仕事も何とか一人前にこなせるようになった。
 時々、二十一世紀の現代で暮らしていたことそのものが、嘘のように思えてくることすらあった。自分は一体、何者なのか。生まれたときから、この時代で暮らしていた錯覚に囚われそうになる。
 しかし、莉彩の生きるべき場所は、ここではない。この時代から気の遠くなるような、はるかな時の彼方―現代の日本なのだ。
 めぐる想いに応えはない。
 ぼんやりとうつむきがちに歩いていたその時、突然、呼び止められた。
「そこのお嬢さん(アッシー)」