約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅲ
「そなたは殿下の乳母臨尚宮の養女だというではないか。十年も前に宮廷を去った臨尚宮が今頃になって、何ゆえ、己れの息の掛かった女を殿下に近づけて参ったのか」
含みのある言葉だ。莉彩は眼を見開いた。
「そなたが入宮以来、殿下がいたくご執心されていると聞き、色々と調べさせた。殿下には現在、中殿どころか側室の一人もおらぬ淋しいご境遇。既におん年三十であられながら、世子(セジャ)もおられぬ。今後、殿下の側室となる娘には是が非でも王子を生んで貰わねばと皆が思うておるゆえ、身分の低い者を迂闊にお側に上げるわけにはゆかぬのだ」
莉彩は毒々しいほど紅い大妃の唇が動くのを唖然として見つめていた。
「聞けば、そなたは表向きは臨尚宮の養女となってはいるが、身寄りもなく、あまつさえ、氏素性の知れぬ娘というではないか。行き倒れておったところを臨家に拾われたという話さえある。そのような賤しき者を畏れ多くも殿下のお側に送り込むとは、臨尚宮はあまりにも不敬である。ゆえに、私はいかに殿下がそなたをご寵愛なされようと、けして側室として認めることは叶わぬと申し上げるつもりだ」
大妃がしてやったりとばかりの顔で断じる。
「賤しい者ほど罪を犯しやすいと申すが、可愛い顔をして怖ろしきおなごだ。どのような手練手管で殿下に近づき、骨抜きにしたものやら、まるで泥棒猫のようだな」
その時、何かが莉彩の中で弾けた。
「ご心配なさらずとも、私は殿下の側室になどなるつもりはございません! どれだけ綺麗な着物を着て、ご馳走を食べることができても、一生鳥籠に閉じ込められるのなんて、ご免だもの。私には故郷(ふるさと)に待っている家族もいるし、付き合っている男(ひと)だっているんです。ご心配には及びませんよ、大妃さま。頼まれなくても、こんなところ、さっさと出ていきますから」
「な、何と、無礼な」
大妃の唇が怒りのあまり小刻みに震えている。
「中殿の座が空いて既に十年、身分賤しくともかほどに殿下のお心を捉えた娘ならば、人柄を直々に確かめようと思うておったものを。心映えの良き者ならば、この際、正式な側室に直さねばならぬかと私はそなたを呼んだのだぞ」
たった今、はっきりと側室として認めるつもりはないと言ったくせに、どこまでが本音かどうか知れたものではない。
「そなたは、最初から殿下のお心を惑わしたと申すのか? 故郷に恋人がおる身で、殿下のご寵愛をお受けした不埒者であるのか」
大妃の憤怒は頂点に達したようだ。
わなわなと震えている大妃に、莉彩は唇を強く噛んだ。あまりに強く噛んだため、切れたのか口中に鉄錆びた味がひろがる。
「いいえ、大妃さま。故郷の恋人には別れようとちゃんと伝えるつもりでいました。―私も国王殿下が好きです。大好きです。でも、幾ら心からお慕い申し上げていても、私は殿下のお側にいてはいけない人間です。昨夜は、そのことをはっきりと殿下にお伝えしました。だから、先ほども申し上げました。私と殿下の間には何もありませんと言ったはずです」
この時代、一女官が王の母である大妃にここまで物をはっきりと言うのは到底常識では考えられないことだ。
また、大妃の前で王への恋慕の情を隠そうともせずに堂々と述べ立てたのも、大妃を初め皆の度肝を抜いた。
「そなたの申すことが真であるなら、それもまた、はなはだ無礼なことだ。後宮の女官であれば、皆、殿下の御意に従うのが筋というものを、賤しい身で殿下の思し召しを拒むとは由々しきことよ」
大妃付きの孔尚宮などは、もう眼をひき剥かんばかりに愕き呆れている。内心で、全く奥ゆかしさの欠片もない蓮っ葉な娘だと思っているのは明らかだった。
「どうやら臨尚宮は、娘の躾の仕方を間違ったようだ。仮にも王のお側に侍る娘が、このような有り様では先が思いやられる。私が臨尚宮の代わりに躾をせねばならぬ。孔尚宮、鞭を持って参れ」
大妃の言葉に、孔尚宮が頷いた。
「はい」
孔尚宮が頷き、恭しく小さな錦の袋を捧げ持ってくる。袋を受け取った大妃は中から鞭を取り出した。
「裾を持ち上げよ」
ぞんざいに命ずる大妃を莉彩はぐっと睨みつけた。
莉彩はそもそもこの時代の人間ではない。幾ら相手が大妃といえども、ここまでの侮辱を受けるいわれはないのだ。
「何だ、その眼は。そなたはよほど性根をたたき直す必要がありそうだな」
大妃が眼顔で合図し、孔尚宮が莉彩に近寄ってきた。有無を言わせぬ力で肩を押さえつけられる。その隙にもう一人の女官が進み出て、莉彩のチマの裾をめくった。
ヒュッと厭な音が空をつんざいた。その瞬間、鋭い痛みが脹ら脛を走り、莉彩は思わず悲鳴を上げた。
大妃が鞭を振り上げ、ヒュッと音が鳴るとともに、再び痛みが襲う。じんじんと痺れるような痛みと、同時にひりひりと灼けつくような痛みが絶えない。
次第に莉彩は意識が朦朧としてきた。だが、無様に大妃の前で倒れるのだけはご免だという気持ちが、辛うじて今の彼女を支え、持ちこたえていた。
そんなことが何回か続いた時、突如として部屋の戸が荒々しく開いた。
「母上(オバママ)」
王が血相を変えて駆け込んできた。
「一体、何事でしょうか」
莉彩は最早、血の気を失って顔面蒼白であった。ふらつく身体を懸命に支えているのが傍目にも判る。
今にも倒れそうな莉彩を見、王が色を失った。
「これは―。莉彩!」
王は莉彩を押さえつける孔尚宮を烈しい眼で睨み据えた。
「孔尚宮、今すぐにその手を放せ」
いつも鷹揚な王がここまで怒りを露わにすることはかつて一度たりともなかった。王のあまりの逆鱗に、孔尚宮は仰天し、狼狽えながら手を放す。
大妃はそれでもなお鞭を振り上げようとする。
「母上、どうかお止め下さい」
懇願してもきかない大妃の前に、王が両手をひろげて立ちはだかった。
「お止め下さい」
莉彩を庇うように前を塞いだ王の背後で、ユラリと莉彩の身体が傾ぐ。王が咄嗟に脇から手を差しのべて莉彩を抱き止めた。
「莉彩ッ、莉彩ッ」
王は気が狂ったように莉彩の身体を揺さぶる。その取り乱し様に、大妃は呆れたように肩を竦め、眉をひそめた。
「何と嘆かわしい。一国の王たるお方が身分の低い女官にそこまで溺れておしまいになるとは。殿下、皆の前で見苦しいおふるまいはお止めなさいませ」
王が叫んだ。
「莉彩が何をしたというのですか! 何の罪を犯したといって、このような酷いことをなさるのです」
「殿下、この娘はお側に置くことはなりませぬぞ。全く無教養な上に、粗野なこと極まりない。殿下はこの者に既に言い交わした者がおることをご存じでいらっしゃいましたか?」
最後の問いには、大妃の面が残酷な歓びに一瞬輝いた。
「存じております。言い交わしておるかどうかまでは知りませんが、交際していた男はいたと当人の口より聞きました」
事もなげに言う王に、大妃が悔しそうな表情になる。が、すぐに体勢を立て直した。
「それでは、殿下はこの者に既に情人がいるとご存じであられながら、お側にお召しになったのですか? 他の男のものになっている女にお手をお出しになるのは君主としてはあるまじき行いにございましょう」
含みのある言葉だ。莉彩は眼を見開いた。
「そなたが入宮以来、殿下がいたくご執心されていると聞き、色々と調べさせた。殿下には現在、中殿どころか側室の一人もおらぬ淋しいご境遇。既におん年三十であられながら、世子(セジャ)もおられぬ。今後、殿下の側室となる娘には是が非でも王子を生んで貰わねばと皆が思うておるゆえ、身分の低い者を迂闊にお側に上げるわけにはゆかぬのだ」
莉彩は毒々しいほど紅い大妃の唇が動くのを唖然として見つめていた。
「聞けば、そなたは表向きは臨尚宮の養女となってはいるが、身寄りもなく、あまつさえ、氏素性の知れぬ娘というではないか。行き倒れておったところを臨家に拾われたという話さえある。そのような賤しき者を畏れ多くも殿下のお側に送り込むとは、臨尚宮はあまりにも不敬である。ゆえに、私はいかに殿下がそなたをご寵愛なされようと、けして側室として認めることは叶わぬと申し上げるつもりだ」
大妃がしてやったりとばかりの顔で断じる。
「賤しい者ほど罪を犯しやすいと申すが、可愛い顔をして怖ろしきおなごだ。どのような手練手管で殿下に近づき、骨抜きにしたものやら、まるで泥棒猫のようだな」
その時、何かが莉彩の中で弾けた。
「ご心配なさらずとも、私は殿下の側室になどなるつもりはございません! どれだけ綺麗な着物を着て、ご馳走を食べることができても、一生鳥籠に閉じ込められるのなんて、ご免だもの。私には故郷(ふるさと)に待っている家族もいるし、付き合っている男(ひと)だっているんです。ご心配には及びませんよ、大妃さま。頼まれなくても、こんなところ、さっさと出ていきますから」
「な、何と、無礼な」
大妃の唇が怒りのあまり小刻みに震えている。
「中殿の座が空いて既に十年、身分賤しくともかほどに殿下のお心を捉えた娘ならば、人柄を直々に確かめようと思うておったものを。心映えの良き者ならば、この際、正式な側室に直さねばならぬかと私はそなたを呼んだのだぞ」
たった今、はっきりと側室として認めるつもりはないと言ったくせに、どこまでが本音かどうか知れたものではない。
「そなたは、最初から殿下のお心を惑わしたと申すのか? 故郷に恋人がおる身で、殿下のご寵愛をお受けした不埒者であるのか」
大妃の憤怒は頂点に達したようだ。
わなわなと震えている大妃に、莉彩は唇を強く噛んだ。あまりに強く噛んだため、切れたのか口中に鉄錆びた味がひろがる。
「いいえ、大妃さま。故郷の恋人には別れようとちゃんと伝えるつもりでいました。―私も国王殿下が好きです。大好きです。でも、幾ら心からお慕い申し上げていても、私は殿下のお側にいてはいけない人間です。昨夜は、そのことをはっきりと殿下にお伝えしました。だから、先ほども申し上げました。私と殿下の間には何もありませんと言ったはずです」
この時代、一女官が王の母である大妃にここまで物をはっきりと言うのは到底常識では考えられないことだ。
また、大妃の前で王への恋慕の情を隠そうともせずに堂々と述べ立てたのも、大妃を初め皆の度肝を抜いた。
「そなたの申すことが真であるなら、それもまた、はなはだ無礼なことだ。後宮の女官であれば、皆、殿下の御意に従うのが筋というものを、賤しい身で殿下の思し召しを拒むとは由々しきことよ」
大妃付きの孔尚宮などは、もう眼をひき剥かんばかりに愕き呆れている。内心で、全く奥ゆかしさの欠片もない蓮っ葉な娘だと思っているのは明らかだった。
「どうやら臨尚宮は、娘の躾の仕方を間違ったようだ。仮にも王のお側に侍る娘が、このような有り様では先が思いやられる。私が臨尚宮の代わりに躾をせねばならぬ。孔尚宮、鞭を持って参れ」
大妃の言葉に、孔尚宮が頷いた。
「はい」
孔尚宮が頷き、恭しく小さな錦の袋を捧げ持ってくる。袋を受け取った大妃は中から鞭を取り出した。
「裾を持ち上げよ」
ぞんざいに命ずる大妃を莉彩はぐっと睨みつけた。
莉彩はそもそもこの時代の人間ではない。幾ら相手が大妃といえども、ここまでの侮辱を受けるいわれはないのだ。
「何だ、その眼は。そなたはよほど性根をたたき直す必要がありそうだな」
大妃が眼顔で合図し、孔尚宮が莉彩に近寄ってきた。有無を言わせぬ力で肩を押さえつけられる。その隙にもう一人の女官が進み出て、莉彩のチマの裾をめくった。
ヒュッと厭な音が空をつんざいた。その瞬間、鋭い痛みが脹ら脛を走り、莉彩は思わず悲鳴を上げた。
大妃が鞭を振り上げ、ヒュッと音が鳴るとともに、再び痛みが襲う。じんじんと痺れるような痛みと、同時にひりひりと灼けつくような痛みが絶えない。
次第に莉彩は意識が朦朧としてきた。だが、無様に大妃の前で倒れるのだけはご免だという気持ちが、辛うじて今の彼女を支え、持ちこたえていた。
そんなことが何回か続いた時、突如として部屋の戸が荒々しく開いた。
「母上(オバママ)」
王が血相を変えて駆け込んできた。
「一体、何事でしょうか」
莉彩は最早、血の気を失って顔面蒼白であった。ふらつく身体を懸命に支えているのが傍目にも判る。
今にも倒れそうな莉彩を見、王が色を失った。
「これは―。莉彩!」
王は莉彩を押さえつける孔尚宮を烈しい眼で睨み据えた。
「孔尚宮、今すぐにその手を放せ」
いつも鷹揚な王がここまで怒りを露わにすることはかつて一度たりともなかった。王のあまりの逆鱗に、孔尚宮は仰天し、狼狽えながら手を放す。
大妃はそれでもなお鞭を振り上げようとする。
「母上、どうかお止め下さい」
懇願してもきかない大妃の前に、王が両手をひろげて立ちはだかった。
「お止め下さい」
莉彩を庇うように前を塞いだ王の背後で、ユラリと莉彩の身体が傾ぐ。王が咄嗟に脇から手を差しのべて莉彩を抱き止めた。
「莉彩ッ、莉彩ッ」
王は気が狂ったように莉彩の身体を揺さぶる。その取り乱し様に、大妃は呆れたように肩を竦め、眉をひそめた。
「何と嘆かわしい。一国の王たるお方が身分の低い女官にそこまで溺れておしまいになるとは。殿下、皆の前で見苦しいおふるまいはお止めなさいませ」
王が叫んだ。
「莉彩が何をしたというのですか! 何の罪を犯したといって、このような酷いことをなさるのです」
「殿下、この娘はお側に置くことはなりませぬぞ。全く無教養な上に、粗野なこと極まりない。殿下はこの者に既に言い交わした者がおることをご存じでいらっしゃいましたか?」
最後の問いには、大妃の面が残酷な歓びに一瞬輝いた。
「存じております。言い交わしておるかどうかまでは知りませんが、交際していた男はいたと当人の口より聞きました」
事もなげに言う王に、大妃が悔しそうな表情になる。が、すぐに体勢を立て直した。
「それでは、殿下はこの者に既に情人がいるとご存じであられながら、お側にお召しになったのですか? 他の男のものになっている女にお手をお出しになるのは君主としてはあるまじき行いにございましょう」
作品名:約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅲ 作家名:東 めぐみ