約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅱ
「殿下のお好きな香草茶ですわ」
王は普段纏っている龍袍(りゅうほう)から、ゆったりとした私服に着替えている。龍袍は紅地に飛翔する龍が金糸で大胆に縫い取られている国王だけに許される正装だ。いうなれば、公の場で着用する衣服であり、今は、淡いピンク地の上下を着ていて、龍袍を着用した際に被る冠も被っていない。
龍袍姿の王も凛々しく威風堂々としていて見映えが良いが、こうして寛いだ私服姿もまた若々しさが引き立っていて、見惚れるほどだ。
「この茶を私が好きなのをよく存じておったな」
王が悪戯っぽい口調で言うのに、莉彩はつられるように笑った。
「さては、そなたに入れ知恵を致したのは臨尚宮だな」
ややあって、王が肩をすくめた。
「まあ、入れ知恵だなんて、人聞きの悪い」
つい砕けた物言いになり、莉彩は狼狽える。
「申し訳ございません(ハンゴンハオニダ)」
こんな場面を劉尚宮に見られたら、それこそどんなに怒られるか知れたものではない。
「良いのだ、自然体でいる方が、そなたらしくて、私は好きだ」
〝好きだ〟のひと言に思わず頬が熱くなる。何げない言葉なのに、過剰に反応する自分が情けなかった。
莉彩の狼狽を知って知らずか、王は思案顔である。
「殿下、どうかなさいましたか? やはり、私の淹れたお茶では、臨尚宮さまのお淹れになったお茶ほどは、殿下のお口には合いませぬか?」
頬の熱さを隠すように、うつむきながら言うと、王は笑った。
「いいや、莉彩の淹れたお茶もなかなか美味いぞ。莉彩、乳母がそなたを宮殿に寄越した意味がやっと判った」
「え―、それは、どういう意味にございましょう」
思いもかけぬ話に、莉彩は眼を見開いた。
「そなたが入宮する前、臨尚宮はそなたに何か申してはいなかったか?」
莉彩は小首を傾げた。
あの時、臨尚宮が突然、莉彩の部屋を訪ねてきて、二人で香草茶を飲んだ。
―あの方は日々、お心淋しく過ごしておいでです。どうか、あの方のお力になって差し上げて下さい。
彼女は確かにそう言った。あのときはまだ、〝あの方〟が国王だとは想像だにしなかったのだが。
莉彩が淑妍の言葉をそのまま伝えると、王は頷いた。
「さもあらん。臨尚宮らしいやり方だ。優しげな振りをして―、まっ、実際、私には母代わりの優しい乳母であったが。さりながら、あれでなかなか海千山千の女傑だぞ? 乳母はそなたを端から私の支えとするつもりで入宮させたのだ。つまり、私もそなたも乳母の策略にまんまとのせられたというわけだな」
王は愉快そうに声を上げて笑った。
「私としては、そなたとこうして共に過ごせる時間を与えてくれた乳母に幾ら感謝しても足りぬほどだが」
直截な物言いに、また莉彩の頬が染まる。
そんな莉彩を見ていた王の顔がわずかに翳った。
「実は今宵は、そなたに話したいことがあって参った。あの例の簪、りらの花を象った簪を今一度見せてはくれぬか」
「はい」
莉彩は部屋の片隅にある小箪笥の引き出しから、簪を出してくる。
渡された簪を王は慎重に眺めた。
室内では、蝶を象った燭台で蝋燭が燃えていた。その淡い光を受けて、アメジストがきらきらと輝く。
「やはり、な」
王は莉彩に簪を返し、納得したように頷いた。
「この簪が、どうかしたのでしょうか」
莉彩の問いに、王は小さな溜息をついた。
「そなたは憶えておるか? この世界に初めて来た時、そなたを荷車で轢きそうになった行商人風の老人を」
「はい、忘れも致しませぬ。観相をするとかどうとか言っておりました」
「あの老人のことがどうにも気になってな。あれからも度々、老人の言葉を思い出していたのだ」
―はるかな時を越えておいでになったお優しいお嬢さま。どうか、今、御髪に挿している簪を大切になさいますように。その簪は、お嬢さまとあちらの世界を繋ぐための大切な鍵にございますよ。
王はあのときの老人の言葉を繰り返した。
「莉彩、本音を言えば、私はそなたを元の世界に帰したくはない。しかし(ホナ)、自分の我が儘でそなたをここに引き止め、家族の待つ場所へと帰りたいと一途に願うそなたの想いを無下にすることはできぬ。それゆえ、私はけして、そなたに告げまいと思っていたことを今、ここで告げる」
王の声は苦渋に満ちていた。
「私が考えるに、この簪は、そなたが元の場所に還る大切な鍵になるのではないかと思うのだ。あの老人の言葉から察するに、彼は、そなたが時を越えてここに来たことを予め知っていたのだろう。観相をすると申しておったが、到底、ただの商人とは思えぬ風格のある老人だった。あの老人は莉彩が髪に挿している簪を大切にせよと言った。その簪が莉彩とあちらの世界を繋ぐための大切な鍵だとも」
「殿下、それは」
言いかけた莉彩に、王は真顔で頷いた。
「莉彩、その簪を身につけ、もう一度、あの場所に参れば良いのではないだろうか。時を飛ぶのに必要な条件、あるいは小道具が揃えば、時空に再び割れ目が生じ、こちらからあちらへと繋がる道ができるやもしれぬ」
駄目で元々、やるだけはやってみないか。
王の瞳は、そう語りかけていた。
「私は―どうやら、つくづく未練たらしい女々しい男らしい。そなたにこれだけ告げた後ですら、まだ、そなたを行かせたくない、帰したくないと心が訴えている。全っく、往生際の悪い男だ」
最後の科白は、唾棄するように言う。
莉彩は哀しくなった。
「殿下。そのような仰り様は、殿下にはふわさしくありません。殿下は、この国(朝鮮)の誇りではございませんか。私は、民の父であり、国の父である殿下には後世までも聖君(ソングン)として語り継がれるような君主になって頂きたいのです。それが、私の願いです」
その時、莉彩の中でもう一人の自分が呟く。
―真実のところ、そうなの? このまま二十一世紀の日本に帰って、もう二度と殿下と逢えなくなっても良いの?
いや、そんなのはいや。
莉彩は心の中で叫ぶ。
本当は帰りたくない。自分がここにいることで、たとえ歴史に歪みが生じてしまったとしても、構いはしない。この時代にいるべきではない自分が拘わることで、歴史を変えたくないだなんて、もっともらしいことを言う自分は、とんでもない偽善者だ。
もちろん、父や母、慎吾や親友たちには逢いたい。でも、大切な家族や友達よりももっと大切なものがこの世界にできてしまった。だから、元いた世界を懐かしいと思うけれど、やっぱり、今のまま、この世界にとどまりたい。
それが、莉彩の本音なのだ。
刹那、莉彩の唇から迸るように言葉が溢れていた。
「嘘です。私だって殿下と同じ、諦めが悪いんです。私だって、本当は殿下のお側を離れたくはありません。ずっと、ずっと、殿下のお側にいたい」
大粒の涙の雫が莉彩の頬をころがり落ちる。
「そのようなことを申しても良いのか。一度、自分のものにしてしまえば、私はそなたを二度と元の世界には帰さぬぞ」
王の瞳は凪いだ海のように静かだった。
だが、その分、感情が読み取れない。
先刻までとは異なり、抑揚のない口調も彼の心境を示してはくれなかった。
突然、王が莉彩の細い手首を掴んだ。
「殿下!?」
莉彩の声に愕きと困惑が混じる。
作品名:約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅱ 作家名:東 めぐみ