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約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅱ

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「では、何故!?」
 振り絞るように叫ぶ王に、莉彩は哀しげに微笑む。
「殿下、私がタイムトラベラーであることをお忘れではございませんか?」
「たいむ・とらべらー」
 王が茫然と呟く。
「そう、私は時間旅行者なのです。望むと望むまいと、私は永遠にここにとどまることはできません。私は本来なら、この時代にいるべき人間ではなく、いるはずのない者が存在し続ければ、時空や空間にどんな影響が出るのか計り知れません。未来から来た私は、この時代ではあくまでも歴史の関与者ではなく傍観者でなければならないのです」
 それに―、幸か不幸か、莉彩は王とめぐり逢ってしまった。めぐり逢ったのが国王ではなく、ただ人、せめて庶民であれば、まだしも市井の片隅でひっそりと生きるというすべもあったろう。しかし、王の傍近くいるということは、その時代の歴史に拘わる可能性を示唆する。
 莉彩が好むと好まざると、王の近くにいて、あまつさえ寵愛を受けたとすれば、歴史に関与することになる。本当ならば、この時代の徳宗の後宮に臨莉彩という女官は存在し得ないのだ。
「私のような者でも、王のお側にいれば、歴史に拘わることがあり得るかもしれないのです。万が一、そうなってしまったとしたら、歴史は本来あるべき姿から変わり、今後の時代の流れがどうなるか判りません。それは怖ろしいことです。そのような罪を犯すわけには参りません」
「そう―だな、そなたの申すとおりだ。私が軽はずみであった。そなたの立場を考えもせず、口にするべきことではないことを申した」
 またひとすじ、王の眼から涙が流れ落ちる。
 莉彩はたまらず、懐から手巾を取り出した。
「本当は今日、お返ししようと思って、きれいに洗濯してきたのですが」
 莉彩が取り出したのは、王のハンカチだった。二日前、劉尚宮に叱られ、思わず泣いてしまった莉彩の涙をこのハンカチで王が手ずから拭いてくれたのだ。
 莉彩は身を乗り出すようにして、手にしたハンカチで王の涙を拭いた。
「もう一度持って帰って、また洗います」
 莉彩が言うと、王は首を振った。
「いや、その手巾を私にくれ。そなた自身の手で私の涙を拭いてくれたその手巾をせめて想い出にしたいのだ」
「―」
 莉彩は何も言えず、そっと王にハンカチを差し出した。王はそのハンカチを大切そうに懐に押し込んだ。
「殿下、この手巾の片隅の刺繍は、リラの花ですか?」
「りら?」
 王が怪訝そうな表情で訊き返す。
 そこで、莉彩は思い当たった。この時代、まだリラの花は西洋から伝わっていなかったのだ。日本でもライラックが入ってきたのは明治時代になってからのはず。
「ライラックという花がございます。そのの花のまたの名をリラともいうのですわ」
「らいらっく―、聞いたことのない花だ」
 王が当惑気味に言う。
「この時代には、まだ伝わっていないのでしょう。ライラックは西洋の花ですから」
「西洋、か。そなたは実に面白い話をする。私の知らぬ様々なことを知り、語る」
 王の瞳は、もう普段の明るさを取り戻している。莉彩がよく知る穏やかな表情だ。
「西洋とは、膚の色は白く、瞳は澄んだ蒼空のような蒼い眼をした人々が住んでいる国を指します。私たち―倭国や朝鮮の人々のように膚が黄色で、髪や眼が黒いのは東洋人」
「白い膚に、蒼い瞳。それでは、南蛮人が住まう国のことだな」
 青年らしくまだ見ぬ外つ国に想いを馳せる王に、莉彩は微笑む。
「リラは南蛮の花ではございませんが、西洋の人は南蛮人と似た容姿をしています。倭国では殿下がいらっしゃるこの時代には、南蛮人を紅毛人と呼んでいました」
「こうもうじん?」
「はい、髪の毛が紅いから、紅毛人にございます」
 漢字を書いて説明すると、王は納得顔で頷いた。
「私は彼(か)の花を知らぬ。ただ、そなたと初めて出逢った日、そなたが挿していた簪についた花の絵を描いて見せて、宮中のお針子に刺繍させたのだ」
 莉彩は王がリラの花の簪をそこまで憶えていたことに愕くとともに、歓びを隠せない。
「私の名前はリラの花から貰ったと、父が話していました」
「〝りら〟だから、莉彩か。美しい花なのであろう。私も一度、この眼で見てみたいものだ」
 だが、それは所詮、叶わぬ夢。
 莉彩と王の間には、気の遠くなるような時が流れている。言うなれば、どうどうと音を立てて流れる歴史という大河を挟んで、その対岸と対岸に二人は立っているのだ。
 今はただ、たまたま莉彩が王と同じ岸辺に立っているだけ。いずれ、自分は元いた世界に、河の向こう岸へと帰ってゆかねばならない。
 願うと願わざるとに拘わらず。
「私も一つだけ訊いても良いか」
 莉彩が頷く。
「何でございましょう?」
 わざと明るい声音で応えた莉彩から、王がふっと視線を逸らした。
「そなたが故国に帰りたいと願うのは、和泉とかいう男のためか?」
「いいえ、殿下。私は帰ったら、和泉君に告げなければなりません。私には別にお慕いする方ができたから、もう二度と逢えないと」
「―!!」
 王の面に驚愕が現れる。
「殿下、今、私はこの時代に来て良かったと心から思います。いえ、むしろ、この時代に私を来させて下さった宿命(さだめ)に感謝します」
 莉彩の哀しげな笑みに、王はもう何も言わなかった。
 夜は静かに更けてゆく。
 明けない夜がないように、莉彩が本来、彼女があるべき世界に戻る日もいつか来るのだろう。
 だからこそ、今はせめてこの瞬間(とき)に存分に浸りたい。心から愛する男の傍にいられる幸せに酔いしれたい。
 
 その数日後のことである。
 莉彩は与えられた居室で書見をしていた。崔尚宮が貸してくれたその本は、朝鮮王朝の歴代の王の生涯や業績について記した、言わば史書である。
 まだ読み終えたのは三分の一ほどではあるけれど、歴史というのは、知れば知るほど、奥深いものがあると思う。
 いずれ徳宗の治世や徳宗自身の生涯についても、ここに記されることになるのだろう。そして、莉彩は、その歴史を記した書物をこの時代からはるから時を隔てた未来で読むことになるのだろう。
 自分の愛した男は、こんなにも偉大な王だったのだと少し誇らしげな、誰かに自慢したいような気持ちで―。
「莉彩」
 突如として名を呼ばれ、莉彩はハッと顔を上げた。両開きの扉の向こうに人の気配があった。
 立ち上がり静かに戸を開けると、案の定、そこには王がひっそりと佇んでいた。
「殿下、どうなさったのですか?」
「少し邪魔をしても良いか」
 部屋の前は磨き抜かれた廊下になっている。女官たちの部屋が廊下を挟んで並んでいるのだ。莉彩は頷き、注意深く周囲を見回してから、王を招じ入れ元どおりに扉を閉めた。
 上座に座った王の前で、莉彩は手早く香草茶を淹れた。臨尚宮直伝のお茶だ。
 香草茶は茶葉が開くまでに多少、時間を要する。慌てず、ゆっくりと。
―子どもが泣き止むのを辛抱強く待つように、茶葉が開き切るのを待ちなさい。
 淑妍は、そう形容した。
 今夜もまた茶葉が開くのを待ち、ポットから湯呑みに茶を注ぐ。
「どうぞ、お召し上がり下さいませ」
 王は言われるままに湯呑みを手に取り、ひと口含んだ。
「これは―」
 眼を瞠った王に、莉彩は微笑んだ。