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約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅱ

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 莉彩は自分の腕など拙すぎて、弾くのも恥ずかしいほどだと思っているが、三十年近くカヤグムを続けてきたという崔尚宮にも出せぬ音を出せると賞められ、嬉しくないはずはなかった。
 今日、莉彩はカヤグムをひそかに持参していた。拙い音色を王にお聞かせするのは畏れ多く、おこがましいとは判っている。しかし、莉彩にとっては、王は今でも雲の上の国王殿下であるよりは、初めて町中で出逢った青年のイメージが強いのだ。
 宮廷の庭は広大で、それぞれの場所によって〝南園〟、〝北園〟と呼ばれている。二日前、莉彩が王とひとときを過ごしたのは北園であった。
 その日は細い月が申し訳程度に夜空に掛かっていた。星は煌めいていたが、月明かりは十分ではなく、夜更けの庭は暗かった。時折、ホーホーとミミズクの啼き声が聞こえてくるのも、余計に夜の闇の深さと静けさを際立たせるようで、莉彩は心細くなってきた。
 新米女官という莉彩の立場では、到底、早くから部屋を抜け出すことは不可能だ。仕事が引けてからは、崔尚宮の部屋で礼儀作法やカヤグム、それに王朝の歴史といったものを学ばねばならず、自室に戻るのは夜更けになるのは常のことである。
 一体、王がいつ頃来るのかも判らないのだ。待っても来ない莉彩に業を煮やして、既に帰ってしまったとも考えられる。
 それでなくとも、十一月もそろそろ終わり近くなった晩秋の夜は寒い。呼吸をする度、莉彩の口から白い息が立ち上ってゆく。
 またホーホーと啼き声が聞こえ、莉彩は無意識の中に両手で我が身を抱きしめた。
「莉彩、来てくれたのか」
 ふいに間近で声がして、莉彩はビクッと飛び上がりそうになった。
「殿下(チョナー)」
 莉彩は丁重に頭を下げる。
「止してくれ」
 王は面映ゆげに言った。
「この間も申したであろう。二人きりのときには、莉彩の前では、私はただの男でいたいのだと」
「参ろう」
 王は先日と同じように気軽に莉彩の手を取る。
 唐突に莉彩の脳裡に、先日の別れ際の出来事が甦った。一瞬だけの軽いキス。思い出しただけで頬が赤らんでくる。今もしっかりと手を繋いでいることが、余計に莉彩の身体を熱くさせていた。心臓の音が騒がしくなり、すぐ側にいる王に聞かれてしまうのではないかと真面目に心配してしまう。
 王は莉彩の手を引いたまま庭園を歩き続け、二人は殿舎が立ち並ぶ方まで戻ってきた。
 連れてゆかれたのは、今は使用しておらぬ空いた宮の一室であった。徳宗には定まった後宮もいないため、このように空いたままの部屋が多いのだ。
「カヤグムを持って参ったのか?」
 王が興味を引かれたように莉彩の手許を見る。
 莉彩は小さく頷いた。
「まだ殿下にお聞かせするほどのものではございませんが、入宮してから崔尚宮さまにご指南頂き、一生懸命頑張って練習して参りました」
 国王殿下にはお聞かせできるようなものではないが、あの日の青年になら、たとえ下手くそでも頑張った成果を見て貰いたい―。王は莉彩の気持ちを的確に読み取ったようだ。
「判った、早速聞かせてくれ」
 莉彩は頷いて、カヤグムに向かう。
 ほどなく、心に滲み入るような得も言われぬ音色が響き渡った。
 一曲弾き終わったところで、莉彩はホウっと息を吐き出した。全身に張りつめていた緊張が解ける。
 王の手を打つ音だけが夜陰に響いた。
「なかなかやるではないか。短期間でここまで習得するのは並の努力ではできなかったろう」
「畏れ多いお言葉にございます(ハンゴンハオニダ)」
 莉彩はか細い声で言った。
 恥ずかしさと嬉しさの両方で、頬が紅潮する。
「そなたのつまびく音をもっと聞いていたいのは山々だが、あまり音を立てては、ここに私たちがいるのを気取られてしまう。カヤグムはまた次に取っておくとしよう」
 王は朗らかに笑った。
 莉彩は素直に王の言葉に従い、カヤグムを片付けた。その間、王は何をするともなしに、あらぬ方を見つめている。
「殿下?」
 幾度か呼んでみても、何か想いに耽っているのか、王はこちらを向こうともしない。何度目かに漸くハッとした顔で振り向いた。
「殿下、どうかなさいましたか?」
 具合でも悪いのかと気遣わしげに訊ねると、王は微笑んだ。
「済まない(ミヤナオ)」
 だが、莉彩はその瞳のあまりの昏さに胸を衝かれた。王がこんな眼をしたことなど、かつて一度たりとも見たことはなかった。
 莉彩が知る限り、王の瞳は常に澄み渡り、微塵の昏さもなかった。なのに、今、王の瞳は虚ろで、無限の闇へと続いてゆくかのようだ。黒々とした瞳は何の感情も宿してはいない。
 一体、何があったというのだろう。
 莉彩の心は不安にざわめいた。
「殿下、何かお心に抱えていらっしゃるお悩みでもあるのですか」
 王に対して不敬ではあると思っても、心配のあまり訊ねずにはいられなかった。
 王はかぶりを振った。まるで重大事について考えているように、黒い睫に縁取られた深い漆黒の瞳を伏せている。
 重たい沈黙が二人の間に落ちた。
 やはり、踏み込みすぎた質問だったのかと、莉彩が後悔し始めたその時、王が唐突に沈黙を破った。
「私は、そのように昏い表情をしているか?」
 莉彩の前で、王は薄く笑っている。まるで別人のような、どこか投げやりな態度は王の健康的なイメージを一瞬にしてかき消し、退廃的な雰囲気を全身から立ち上らせていた。
「何かとても大きな悩みを―痛みをお心の奥深くに潜ませていらっしゃるようにお見受けします」
 莉彩は言葉を慎重に選んだ。相手に何か重大な悩みがある場合、自分が話す言葉一つで更に相手を追いつめてしまうこともある。莉彩はまるで手負いの獣のように傷ついた瞳を持つ王をこれ以上傷つけたくはなかった。
 また沈黙。莉彩は何か胸騒ぎを憶えて、王の端整な面を息を呑んで見つめた。
 王の顔に昏い笑みが浮かんだ。
 莉彩は刹那、骨の髄まで寒気を憶えた。
「何から話したら良いのだろう」
 王の声は普段よりも数トーン低く、地獄から這い登ってくるかのようだ。
「莉彩、そなたと初めて出逢ったあの日、王である私が何故、町中をさまよっていたか、訝しく思ったことはないか?」
 あ、と、莉彩は声を上げそうになった。
 言われてみれば、確かにそのとおりだ。大体、国王が一人で護衛も連れずに町中を徘徊するなんて、あり得ない話ではないか。
「それは―確かに仰るとおりでございますね」
 つくづく自分の無知というか思慮の浅さを思い知らされるのは、こんなときだ。
「昔語りをするとしよう」
 王は莉彩の反応には頓着することなく、言葉どおり子どもに昔話を読み聞かせるように淡々と話し始めた。
「私には、かつて、その人のためならば死をも厭わぬというほど愛した女人がいた。莉彩、十年前といえば、そなたは幾つだ?」
 予期せぬ問いに、莉彩は戸惑いながらも応えた。
「六歳にございます」
 王がほろ苦く笑う。
「そうか、六歳か。まだ、ほんの子どもだったのだな。その頃、私は一人の女を殺した。それもただの女ではない、何ものにも代えがたいと思うほど、心から愛し必要としていた女性だ」
「まさか、殿下が最初に仰った最愛の方―?」
 思わず呟いてしまい、莉彩は失言であったと口を押さえる。