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約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅱ

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 大殿(テージョン)、つまり王のお住まいになる宮の尚宮と一般の尚宮では立場が断然違う。しかも劉尚宮は、副提調尚宮(副女官長)も兼務している。この後宮では提調尚宮の次にいるナンバーツーなのだ。よもやとは思うけれど、自分の愚かな粗相のために、崔尚宮にまで累が及んではと一瞬、焦ったのである。
「劉尚宮、まあ、良いではないか。本人も入宮して日が浅いと申しておる。まだ新参の身でありながら、上司を庇うとは、なかなか優れた心映えを持つのだな。その方、名を何と申すのだ」
 劉尚宮の背後から、王の穏やかな声が聞こえた。
 刹那、莉彩はハッとして顔を上げてしまった。その瞬間、王と莉彩の眼が合う。
「何と無礼な。殿下のご尊顔を許しも得ずに拝し奉るとは」
 またまた、これが劉尚宮の怒りを煽ったらしい。
「も、申し訳ございませぬ」
 莉彩は再び平身低頭した。頭を地面にこすりつけんばかりに下げる。
「何だ、莉彩ではないか。道理で、どこかで見た女官だと思ったぞ。どうだ、少しは新しい暮らしに慣れたか?」
 親しげに問われ、莉彩は慌てて頷いた。
「は、はい。せ、聖恩の限りにございまする」
 崔尚宮から教え込まれた科白を口にすると、朗らかな笑い声が響き渡る。
「劉尚宮、予は少しこの者と話がしたい。そなたらは下がっておれ」
 命じられた劉尚宮は土下座したままの莉彩をひと睨みし、内官や女官を引き連れ、少し離れた場所に移動した。
 王が手を差しのべ、莉彩の手を無造作に取った。
「ここでは、やはり人眼が気になる。ゆこう(カジャ)」
 いきなり走り出した若い二人を、皆が呆気にとられて見つめている。むろん、劉尚宮も苦々しげな顔で見送った。
 人気のない庭園の一角まで来て、王は漸く立ち止まった。それでも、王はまだ莉彩の手を放そうとはしない。荒い呼吸をしながら、莉彩は消え入るような声で言う。
「殿下、手を―お放し下さい」
「何ゆえ、そのように急に畏まる。出逢ったときのように、威勢良くなくては莉彩らしいくないぞ?」
 王は笑いながら、やっと手を放してくれた。
「まさか、あなたさまが国王殿下だとは思いもしませず、ご、ご無礼の―」
 緊張と愕きに思わず声が上ずり、あまりの情けなさに涙が零れた。
 あまりにも迂闊だったと思う。よくよく振り返れば、宮殿に住めるのは、まだ成人前の幼い王子だけで、一人前になれば王子たちは皆宮廷を去り、王子宮を構えるのがならいだ。
 なのに、〝あの方〟を単なる王族の一人だと思い込んでいた自分はやはり劉尚宮のいうように、とでもない粗忽者だ。
「―泣いているのか?」
 ふいにすぐ真上から声が降ってきたかと思うと、莉彩の身体はふわりと抱き寄せられた。
 莉彩は我が身に起こったことが到底信じられなかった。
 これは夢―? 覚めるのが勿体ないと思ってしまうほどのステキな夢なの?
「いいえ、泣いてなどおりませぬ」
 そう言いながらも、声が震えるのはどうしようもない。
 王がかすかに含み笑いを洩らした。
 懐からそっと手巾を取り出し、莉彩の涙をぬぐってやった。
「そなたが泣くと、予はどうして良いか判らなくなってしまうのだ。だから、もう泣くのは止めろ」
 初めてこの世界に来たそのときから、ずっと優しくしてくれた男(ひと)だった。でも、いまだにこの男の面影が胸の内から消えないのは、多分、生命の恩人だからというだけじゃない。
 莉彩は心で思った。
―わたしは、このひとのことがきっとすきなんだ。
 〝好き〟という短いフレーズを口の中で転がしてみる。すると、それは一瞬の中にふわふわとした綿菓子のように溶けてひろがる。
 切ないけれど、幸せな気持ちだった。
 慎吾を想う時、こんな気持ちになったことは一度もなかったのに。
 この瞬間、莉彩は、はっきりと認識した。
 慎吾への気持ちは、恋ではなかったことに。そして、恐らく、この男とめぐり逢ったときから、真実の恋が既に始まっていたことに。
 だが。
 この想いは永遠に実ることはないだろう。
 まず第一に、莉彩はこの時代の人間ではない。本来であれば、この世界に属するべき人間ではなく、いてはならない人間なのだ。
 いずれ現代に帰ることになる莉彩に、この時代に生きる男を好きになる資格はない。
 次に、莉彩が生まれて十六年で初めて恋に落ちたひとは、国王殿下だった―。仮に莉彩がこの時代、はるかな過去で生きてゆく決意をしたとしても、この男と自分が結ばれる可能性は皆無に等しい。
 ありきたりな言葉、理由ではあっても、二人の間に立ちはだかる厚い壁は〝身分違い〟という名の障害であった。
 泣くまいと思えば思うほど、涙は堰を切ったように溢れ出してくる。
「宮廷での暮らしは、それほどに辛いのか」
 王の声もまた辛そうだ。
 莉彩は泣きながらも、小さく首を振った。
「いいえ、崔尚宮さまはお優しいし、色んなことを教えて下さいます。新しいことを憶えるのが愉しくて、毎日、時間が飛ぶように過ぎてゆきます」
「そうか、それは良かった。莉彩。その髪飾り、よく似合っているぞ」
 王が莉彩の髪にそっと触れた。ほんの少し触れただけなのに、そこだけがまるで熱を持ったように熱い。
「畏れ入りましてございます(ハンゴンハオニダ)」
 莉彩がまたも憶えたての常套句を口に乗せると、王は笑った。
「もう、良い。莉彩。そなたの前では、予は国王でも何者でもない。ただの一人の男だ。そのように畏まられると、予の方が哀しくなるではないか」
 王は半ば戯れ言めいて言い。
「予と二人だけで逢うときには、また、その髪飾りを付けてきてくれ」
 その言葉に弾かれたように顔を上げると、王の屈託ない笑顔があった。
 互いの呼吸すら聞こえそうなほどの近さに、ドキリと心臓が跳ね上がる。
「明後日の晩、ここで再び逢おう」
「―!」
 何か言おうとしたが、その言葉はふいの口づけで遮られた。
 鳥の羽根がかすかに触れるほどの接吻、それでも、莉彩にとっては初めてのキスだった。
 莉彩が我に返った時、既に王の姿はその場にはなかった。
 赤や黄金色に染め上がった庭の樹々がただ静かに晩秋の風に吹かれているばかり―。
 十一月も下旬に入り、樹々も半ば葉を落とし、落ち葉に埋め尽くされた地面はまるで鮮やかな絨毯を敷きつめたようだ。
 莉彩の手に、一枚のハンカチが残された。そっと手のひらにひろげてみる。
 純白のハンカチの片隅に紫の花が縫い取られている。
「もしかして、これはリラの花?」
 思わず声に出して叫んでしまって、慌てて口を押さえる。
 王がこのハンカチを持っていたのは単なる偶然だろうか。
 思わず期待に胸がときめきそうになり、思わず自分を叱る。
 あの方はけして愛してはいけない男。どんなことがあっても、この感情(おもい)を表に出してはならない。
 でも、心の中でそっと想うくらいなら、許されるのではないだろうか。そう言い訳しながら、莉彩は白いハンカチを握りしめる。
―莉彩、その髪飾り、よく似合っているぞ。
 劉尚宮に
 まだまだ崔尚宮の脚許にも及ばないけれど、師匠である崔尚宮に言わせれば〝莉彩は良い音を出す。私には何としても出せぬ音色だ〟とのことだった。