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約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅱ

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慎吾とのことも、やはりこのままではいけないと思うようになった。相手の優しさや寛容さに付け込み、その気があるような素振りを見せるのは卑怯だ。こちらも現代に戻れたら、自分の想いをきちんと誠意をもって告げ、二人の関係を見直してみる必要があるだろう。
 莉彩が折しも固めの杯を口にしようとしたその時、はるか遠方を賑々しい行列が通りかかった。朱塗りの綺羅綺羅しい輿に乗っているのは、まさに国王その人である。
 輿の前後をあまたの内官や尚宮、女官が付き添い、行列は静々と進んでゆく。
 ふいに、その行列が止まった。
 緊張しっ放しで儀式に臨んでいる莉彩には、そんな一切は眼に入ってはいない。
 嘉礼を行っている様子を遠くから見かけ、王が脚を止めたのだ。
「あの者は誰だ?」
 傍らに畏まって控える内官に訊ねた王に、恭しい返事が返ってきた。
「本日、嘉礼を行っておりますのは臨女官にございます」
「臨女官とは―」
 物問いたげな王に向かい、今度は王付きの尚宮が丁重に応えた。
「はい、四日前に臨尚宮の紹介で入宮致しました臨莉彩(イムイチェ)にございます」
「おう、そうであったか。そう申せば、あの者が乳母の養女として入宮としたと耳にしておった」
「国王殿下(チュサンチョナー)は臨女官をご存じでいらっしゃいましたか?」
 尚宮が愕いた表情をするのに、若い王は笑った。
「まあ、な」
 嬉しげに嘉礼を見つめる王の横顔を、内官と尚宮が意味ありげな顔で見つめ合う。
 それは、〝殿下のご執心なさる女官が新たに現れた〟という無言の事実確認であった。
「輿をもっと近くまで移動させよ」
 鶴のひと声で、王の乗った輿はまた静々と進んだ。お付きの者たちもまたぞろぞろと付き従う。物陰に輿を止めさせ、王は愉快そうな表情で厳粛に執り行われる儀式を見物している。
 と、突然、王が輿を降りようして、傍らの内官は狼狽えた。
「殿下、どうなさるおつもりにございますか」
「臨女官の許にゆく。丁度、固めの杯を呑んでいるところではないか、花婿のおらぬ婚礼は淋しかろう。予が参って、その役を果たそう」
 事もなげに言う王を、尚宮が大慌てで止めた。
「なりません、殿下。後宮の女官は皆、おしなべて殿下のものであるという大前提に嘉礼は行われます。あまたの女官は皆、誰もが殿下のご寵愛を頂くことを夢見ておるのでございます。女官の嘉礼は新婦一人で行うのが通例、それを臨女官にのみ殿下がご臨席あそばされては、他の者たちに示しがつきませぬ」
 尚宮の諫めはもっともであった。私情に溺れて、公私混同するほど愚かな王ではない。
 王は不満げに押し黙ったが、その表情には明らかに落胆が滲んでいた。
「後宮に仕える女官が予のものだと申すのなら、予が女官の嘉礼に新郎として出席しても一向に構わぬと思うのだがな」
 それでもまだ小声で呟く王を、年配の尚宮がキッと睨む。
 王はまるで悪戯を見つかった幼児のように肩をすくめ、それきり口を噤んだ。
 霜月下旬とはいえ、その日、日中は動けばうっすらと汗ばむほどの陽気だった。
 年若い王は、盛装した臨女官を眼を細めて眺めている。その視線が何となく熱っぽく、眩しげに見えたのは、満更、陽光の眩しさだけではなかったろう。
 その後も、嘉礼が終わるまで、王はその場所から動かなかった。

 その二日後。
 莉彩は直属の上司である崔(チェ)尚宮から言いつけられた洗濯を済ませ、更にその後すぐに生果房(王や王妃たちに出す食材を賄う部署)まで崔尚宮の言づてを届けにいった。それは、今夜の王にお出しする御膳のデザートの変更であった。栗を出す予定だったのを、急遽、干し杏子に代えるというものだ。
 崔尚宮は臨尚宮とも面識があるといい、年の頃は四十前後のもの柔らかな女性である。偉い女官となると、皆、怖くて威張っているおばさん(?)=お局さまを想像していたのだけれど、崔尚宮はどちらかといえば臨尚宮と似たようなタイプだ。
 もっとも、失敗したときには、容赦なく手厳しく
 王は昔から、この大妃と犬猿の仲であった。現王徳宗(ドクジョン)は先王の側室の一人である淑儀(スウギ)から誕生、身分の低い側室からの出生である王を大妃は厭い、長らく世子(セジャ)とすることに異を唱えていた。しかし、先王はあまり子宝には恵まれず、中殿金氏はまだ世子嬪(王太子妃・セジャビン)時代に一女をあげたものの、生後まもなく早世、その後は懐妊することはなかった。
 王子四人、翁主(王女)三人の中、成人するに至ったのは何と王位を継いだ徳宗のみであった。徳宗の生母は徳宗がまだ六歳の砌に若くして亡くなっている。生きていれば、王の実母としてさぞかし時めいたであろうが、時に宿命とは弱き者には苛酷なものである。
 淑儀は我が子が王座に就くどころか、世子に冊立されるその晴れの日すら見ることなく、王妃にいびられながら失意の中にこの世を去った。まだ二十四歳の若さだったという。
 とにかく、このなさぬ仲の母子は仲が悪かった。王が何かしようとすれば、必ず大妃から横やりが入る。意地になった王は余計に己れの意見を通そうと躍起になる。―といった案配で、この果てしない親子喧嘩は延々と続いている。
 莉彩は水果房に崔尚宮の伝言を確かに伝え、足どりも軽く来た道を引き返した。
 その途中、向こうからぞろぞろと歩いてくる一団に遭遇する。
 お付きの内官が大きな緋色の天蓋を高々と掲げているところを見ると、どうやら国王殿下のおなりらしい。宮殿内は途方もなく広いため、王は移動の際、輿を使うことが多いのだが、今日は歩いての移動といったところか。
 緋色は高貴な色、許された者のみが纏う色である。例えば、王と大臣と呼ばれる高官たちだ。
 莉彩は咄嗟に脇に身を寄せ、深々と頭を下げた。莉彩のような新参の女官―しかもまだ見習いの身では、王の尊顔を拝し奉ることも畏れ多いのだと崔尚宮から教えられた。
賑々しい一団が次第に近付いてくる。
 行列がまさに眼の前を通り過ぎようとしたその一瞬、鋭い誰何の声が頭上から飛んできた。
「そなたは、どなたにお仕えする女官だ?」
 思わず身を強ばらせ、震える声で言上する。
「崔尚宮さま(チェサングンマーマ)にお仕えしております」
「たかだか一介の下働きがそのような高価な簪を身につけるとは、宮廷でのしきたりを侮っておるのか!」
 どうやら、王付きの尚宮に咎められてしまったらしい。王付きの劉尚宮(リュウサングン)は謹厳なことで有名だ。曲がり角を曲がるときには、角に添って定規で線を引くように曲がるという話は、融通の利かぬ劉尚宮の逸話として誰もが知っている。
 臨尚宮や崔尚宮とはまさに正反対のタイプだろう。
「崔尚宮は一体、女官にどのような躾をしておるのだ。全くもって嘆かわしい」
 そこに上司の名まで持ち出され、莉彩は狼狽して、その場に平伏した。
「どうかお許し下さいませ。まだ入宮して日も浅く、私の落ち度にございました。崔尚宮さまには何の拘わりもございませぬゆえ。どうか、今度ばかりはご容赦下さいませ」