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約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅰ

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 莉彩の父は韓国語が堪能だが、莉彩自身はてんで駄目だ。それなのに、まるで生まれながらの韓国人のようにハングルを自在に操ることができる。それは時間旅行者(タイムトラベラー)の莉彩には助かったけれど、これもまた不思議といえば不思議な現象の一つであった。
「確かに不思議なこともあるものだ」
 男は素直に頷いた。
 莉彩がいちばん嬉しかったのは、男が莉彩の話を茶化したりせず最後まできちんと耳を傾けてくれたことだった。大抵の人ならば、莉彩を端から気違い扱いするのがオチだろうに、この男はちゃんと莉彩に向き合い、真剣なまなざしで語り適切なアドバイスをくれようとしている。
 しばらくして、男はそろそろ家に戻らねばならないと言って、帰っていった。
 部屋を出ようとした男の背に、莉彩は思い切って声をかけた。
「さっきは、ごめんなさい。帰りたいのかって訊かれた時、つい感情的になってしまって。あなたはこの国のこの時代に住む人なのに、その人の前であんなに取り乱すべきできではなかったと思うの。だって、この時代には、あなたのように親切で優しい人だっているんだもの」
 男が口を開きかけ、少し逡巡を見せた。
「そなたが帰りたいと願うのは、やはり―」
 が、男は薄く笑い、首を振った。
「いや、止めよう。莉彩、先刻紹介した臨尚宮は私の母(オモニ)も同然の人だ。そなたのいた時代に帰ることができるその日まで、遠慮なく暮らしなさい」
 茫然とする莉彩の前で、扉が静かに閉まった。
 
 【一人だけの結婚式】

 男の言葉どおり、臨尚宮は心優しい女性であった。臨淑妍は、男の乳母だという話もどうやら真実(ほんとう)のようだった。莉彩が身を寄せることになった屋敷は正確には淑妍のものではなく、その弟の臨内官(イムネガン)の所有であり、内官とは宦官のことを指すのだとも初めて知った。
 内官は王の住まう宮殿に侍し、公私にわたって王の傍にいてご用を務める。ゆえに王の后妃に接する機会も多く、去勢した宦官でなければならないという掟があった。
 若くして内官になったときから、既に去勢しているため、妻帯はしても形ばかりで子をなすことはできない。そのため、内官は皆、養子を迎えて家門を継がせるのが通例となっている。
 臨内官にも奥方はいるが、実子はおらず、数年前に若く優秀な内官を養嗣子として迎え入れたそうだ。
 淑妍は、莉彩を客人としてもてなしたが、莉彩は自分から頼み込んで屋敷内で侍女として働いた。掃除、洗濯、元々、身体を動かすのは嫌いではない。それに、何かしていれば、ともすれば沈みそうになる心を何とか保っていられる。
「そんなことをさせては、私があの方に叱られてしまいますから」
 淑妍が真顔で止めても、莉彩は毎朝、山のような洗濯物を抱えて井戸までゆき、大勢の侍女に混じって厨房で立ち働いた。
 あの方というのが例の男―莉彩を助けてくれた男であることは判った。
 そういえば、莉彩はいまだに男の名前も知らない。淑妍に訊ねても、〝それは、あの方ご自身がいずれ明かされるでしょう〟としか言わない。
 そんなある日の夜、莉彩が自室で寛いでいると、外側から声がかかった。
「入ってもよろしいかしら」
「ええ(イエ)、どうぞ」
 莉彩に与えられたのは、初めてこの屋敷に来た日に通された室である。夕餉までは忙しく立ち働く莉彩であったが、この部屋で一人早めの夕飯を済ませた後は、特にすることはない。
「秋の夜長に少し話でもしようかと思って」
 淑妍はそう言って、上座に座る。
 座椅子に座っていた莉彩は淑妍に席を譲り、やや下手に座った。
「今、お茶を淹れますね」
 この香草茶は臨家が特別に領地内にある産地から取り寄せているお茶で、淹れ方にはコツが要る。淑妍に教えられ、莉彩はすぐに淹れ方を憶えた。
「お伺いしても良いでしょうか」
 莉彩の淹れた香草茶を美味そうに飲む淑妍に、莉彩は問うた。
「何なりと、私のお応えできることならば歓んで」
 淑妍は莉彩を気に入ってくれたようで、まるで実の娘のように可愛がった。
「淑妍さまは、あの方から臨尚宮と呼ばれていらっしゃいますが、尚宮というのは後宮で働く偉い女官のことじゃないですか?」
 いつしか莉彩もあの男を〝あの方〟と呼ぶようになっていた。名前を知らないのだから、他に呼びようがない。
 韓流ドラマ好きの母親の影響もあってか、その程度の知識なら持っている。
「ええ、そうですよ」
 淑妍が微笑んで頷く。
「じゃあ、淑妍さまは、昔は宮殿にお勤めしてらしたんですね」
 自分の予測が的中し、莉彩は嬉しくなった。
 後宮で働く女性―女官は皆、上は尚宮から下は下働きの下女まで国王のもので、結婚も叶わず一度入宮したら死ぬまで暇を取ることはできない。
 後宮にはあまたの女性がひしめいているけれど、その中で国王の眼に止まり、お褥に侍ることができるのは、ほんのひと握りの幸運な女人だけ、その他大勢は顔すらろくに見たこともない王に操を立てて一生を無為に過ごさねばならない。
 それはつまり、後宮の女なら誰もが王の所有物であるという建て前があるからに他ならない。そのため、女官は〝人知れず咲いて散る花〟と謳われ、ひっそりと花開き、花の盛りを誰にも愛でられることない憐れな宿命だといわれていた。
 母に誘われて何度か見たドラマで、後宮の女官がたった一人で婚礼を挙げているのを見て不思議に思ったことがある。しかし、その理由は直に判った。
 国王の女である女官は、生涯誰にも嫁がず、王をただ一人の良人として貞節を守りながら過ごす。ゆえに、後宮の女官が上げる婚礼というのは新郎不在で、花嫁ただ一人が良人たる王に生涯の貞節を誓う、いわば誓いの儀式なのだ。
 華やかなはずの婚礼に何とも悲壮な雰囲気が漂っているような気がしたのは、そのせいだったのだ。
「何故、宮殿を下がられたのですか」
 この問いにも、淑妍は微笑んで応えた。
「自分の役目が既に終わり、私が宮殿にいる必要がなくなったと自身で判断したからです」
「そう―なのですか」
 莉彩はしばらく考えに耽った。
 しばらくして、弾かれたように面を上げる。
「淑妍さま、私にどこか働き先を紹介して貰えませんか」
「―」
 流石に淑妍は声がなかった。
「折角の機会なので、色々な経験をしてみたいのです。それに、いつまでもこちらのお屋敷にご厄介になっているわけにもゆきませんし」
 あの男が淑妍にどこまで話しているのかは判らないが、大方、淑妍はすべての事情を察しているに相違ない。
 実のところ、莉彩はいつまでもこの屋敷にはいられないと思っていた。淑妍もその弟の臨内官も優しい人たちだけれど、臨内官の奥方はなかなか気性が烈しい女性だ。莉彩は一、二度しか逢ったことはないが、初めは良人の臨内官が屋敷内に囲った側妾だと勘違いされ、物凄い眼で睨まれた。
 夫婦とはいえ、良人とは交わりのできぬ宿命だ。むろん、夫婦は閨の関係だけではない。長の年月を共に寄り添い合って歩みながら、信頼関係と絆を築いてゆけば良いだろう。