約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅰ
が、覚悟して嫁ぐとはいっても、健康な女性であれば辛いこともあるはずだ。その長年、溜まりに溜まった鬱憤が夫人の気性を余計に撓め歪ませているのかもしれない。考えてみれば、宦官の妻というのも哀しい立場ではあった。
今でも夫人が自分の存在を疑いの視線で見ていることは知っている。淑妍や臨内官はともかく、あの女性は莉彩に一日も早く、出て行って欲しいと願っていることだろう。
「夫人(プイン)のことですね。あの人も悪い方ではないのですが、やはり内官の妻というのも辛いものがあるのでしょう。私と同様、夫人も子を生み育てるという女としての愉しみを味わえなかったのですから」
淑妍はどこか淋しげに微笑むと、頷いた。
「でも、淑妍さまは、あの方の乳母だったとお聞きしましたが」
言ってしまってから、ハッとした。
「済みません。私ったら、余計なことを」
乳母を務めたからには、当然結婚もして子を生んだのだとばかり思い込んでいたのだが、どうやら、それは見当外れだったようだ。
淑妍は笑って、かぶりを振った。
「良いのですよ、私は乳母とはいっても、保母尚宮としてお仕えしたのです。つまり養育係です。お乳を差し上げた乳人は別にちゃんといたのですが、あの方が乳離れされたときに宮中を退かれました。まだ幼いお子をお家に残されてのご奉公ゆえ、致し方なしと認められて円満に退かれたのですわ」
淑妍が遠い瞳で語った。
「あの方が三歳のときにお側に上がってから、以来、十七年、宮殿におりました。畏れ多いことですが、子のおらぬ私にとっては、あの方が我が子のようなものです」
淑妍はそう締めくくると、莉彩に告げた。
「先刻のお話ですが、どうでしょう、いっそのこと、宮中にお仕えしてはいかがですか」
「宮中―、それって、もしかして後宮の女官になるということですか?」
莉彩が眼を丸くすると、淑妍は笑った。
「そのとおりです。あなたの場合は事情が事情ですから、一般の女官とは違い、止めたいと思ったときに止めることができます。もし、その気があるのなら、私から提調尚宮(チェジョサングン)に手紙を書きます。それを持って後宮に上がれば、すべては上手くいきますよ。手筈はすべて私が整えます」
提調尚宮とは、いわゆる後宮女官長であり、後宮の最高責任者である。随分前に退出したとはいえ、後宮女官長と知己だというからには、やはり淑妍は後宮で重きをなしていたのだろう。
「莉彩、私からもお願いが一つあるのです」
真摯な視線を向けられ、莉彩は思わず居住まいを正した。
「淑妍さまには何から何までお世話になりました。その恩義あるお方のお願いとあれば、私でできることなら、何でもします」
「ありがとう」
淑妍は淡く微笑むと、もうすっかり冷めてしまった香草茶をひと口含んだ。
「もう冷えてしまったでしょう。すぐに淹れ直します」
莉彩がすかさず湯呑みに手を伸ばすと、淑妍はそれを手で制した。
「あの方は、日々、お心淋しく過ごしておられます。莉彩は利発で物憶えも良い。それに、心根も優しい娘ゆえ、こうして頼んでいます。どうか宮殿に上がったら、あの方のお力になって差し上げて下さい。この香草茶は実は、あの方がお好きなものなのですよ。宮殿にいる時分は、よくこれをご所望になり、私が淹れて差し上げました」
「淑妍さま、あの方は王族のお一人でいらっしゃるのですね? 身分の高いお方だとは思っていましたが、まさか宮殿にお住まいの王族だとは考えてもみませんでした」
莉彩が無邪気な感想を述べるのに、淑妍は、ただ静かに笑っているだけだ。
「判りました。いつまでいられるかは判りませんが、精一杯、淑妍さまのご期待に添うように努力します」
莉彩は力強く頷いた。
「頼もしい言葉を聞けて、私も嬉しく思います」
淑妍が微笑む。眼の前の卓には器に美しく盛られた揚げ菓子があった。淑妍はそれを一つつまむと、莉彩に差し出す。
「さ、遠慮しないで、お食べなさい。先刻から食べたいのに、私に遠慮して我慢していたのでしょう」
「へへ、ばれちゃいましたか」
莉彩は肩をすくめ、ペコっとお辞儀をして揚げ菓子を受け取る。
現代にいるときも、この時代に来ても、甘いものには眼がない莉彩であった。
いかにも幸せそうに菓子を頬張る莉彩は、まだ十六歳の少女らしく、あどけない。
そんな莉彩を淑妍は婉然と微笑んで眺めていた。よもや、淑妍の中にさる思惑が潜んでいようとは、この時、莉彩は知る由もなかった。
その数日後、莉彩は慌ただしく臨内官の屋敷から宮殿に移った。既にこの時代に来てから、ひと月余りが経っていた。
入宮後まず行われたのは、何と婚礼であった。この時代、韓国では婚礼のことを嘉礼(カレ)と呼ぶ。
むろん、後宮女官の掟にのっとり、花婿のいない、花嫁だけの結婚式だ。テレビで見たときも、何とも侘びしいものだと思ったものだけれど、現実に自分が直面してみると、侘びしいどころではなかった。
韓国の伝統である花嫁衣装を身につけ、飾り立てた祭壇に向かい、恭しく拝礼し、日本で言う三三九度―夫婦固めの杯を口にする。
拝礼は両手を上に向けて重ね合わせ、まずは眼の高さまで持ち上げ、座って一礼する最高礼である。重たい婚礼衣裳に身を包んでいるため、一人で所作が上手くできない。ゆえに、両脇から介添えの女官に支えられ、何度かの拝礼を終えるのだ。
婚礼とは、本来めでたいものなのに、まるで通夜のようなこの暗い沈んだ雰囲気はどうだろう。それはやはり、この儀式を終えた女官は正式に王の所有物と見なされ、生涯誰にも嫁ぐことなく、あたら花の盛りを無為に咲く徒花となることを義務づけられるからに違いない。
この日を境に、嘉礼を済ませた女官は一人前として認められ、誰にも愛でられることなく、ひっそりと咲いて散る花となる宿命を背負うことになる。
この時代からはるか後の現代に生きる莉彩にとっては、全くナンセンスな話だと思うが、昔はそれがごく当たり前の考えであったのだろう。現に、日本の江戸時代においても江戸城大奥に奉公する奥女中は上から下まで将軍一人に操を立て、大奥にいる限りは生涯〝お清〟を通すという掟があった。
国は違えども、どこも封建社会の仕組みは似たようなものなのかもしれない。
この時代に飛ばされてきて、莉彩は色々なことを見、知った。二十一世紀の日本に生きる自分は、とても幸せなのだと改めて思った。
同時に、過去と現在の違いを知るにつけ、色んなことを考えるようになった。両班と呼ばれる貴族や王、王族たちというごく一部の特権階級に属する人々だけが絹を纏い、食べきれないような量のご馳走を口にする。
裏腹に庶民は幾ら働いても、その日のお米さえ満足に手に出来ない。ごく少数の上層階級だけが享楽と利を貪る世の中は、どこか間違っている。でも、莉彩には、世の中を動かしたり変えたりする力はない。この時代よりはるか後の時代に生きる、ただの無力な高校生にすぎない。それが何とも口惜しくはあったけれど、二十一世紀に帰ったら、莉彩はもっと一生懸命勉強しようと思った。
作品名:約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅰ 作家名:東 めぐみ