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約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅰ

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 この服装は確か―。李氏朝鮮時代の人の格好ではないのか。よく韓流ドラマなどで見かけるもので、今、現実に莉彩の前を通り過ぎてゆく人たちは貴賤の差はあれども皆、似たり寄ったり、つまりドラマで見るような身なりをしている。
「う、嘘だわ」
「そうだ、嘘に決まっている。あんな怪しい爺さんの申した嘘など気にせずに―」
 言いかけた男の前で、莉彩は思わず両手で顔を覆った。
「一体、何なの? 突然、こんな時代に引っ張り込まれて、しかも、ここは日本でもなくて遠い韓国だなんて」
 いや、この時代は韓国という国名さえなく、朝鮮と呼ばれていた。莉彩は自分の頬をピシャリと叩いた。
 そうだ、こんなのは悪い冗談に決まっているではないか。手の込んだできすぎたドッキリカメラか、さもなければ、韓流ドラマの撮影ロケに紛れ込んでしまったかのどちらかだ。
 現実にタイムトリップなんて、この世にあるはずがないのだから。
 莉彩は必死に自分に言い聞かせた。
「おい、しっかりしろ、気は確かか? 頭はどこも打ってないし、見た目は怪我をしてるようには見えんがな」
 男が莉彩の眼の前で手のひらをひらひらと振って見せた。
「失礼ね、私は正気も正気、気違いなんかしゃありません。助けて貰ったお礼は言いますけど、もしかして、さっきのお爺さんや私が荷車に轢かれそうになったのも芝居の一部じゃないの?」
 莉彩の剣幕に、男が鼻白む。
「あの爺さんといい、この女といい、今日は何とも無礼な奴らばかりに遭遇するようだ。全くついてない一日になってしまった。私の方こそ、爺さんに観相して貰った方が良かったかもしれぬ」
「助けて頂いて、ありがとうございました。それじゃあ、ごきげんよう」
 怒りまくる男を後に、莉彩がさっさと歩き出そうとする。いつまでも、こんな質の悪い茶番に付き合ってなんかいられるものか。監督がどこにいるかは知らないけれど、一刻も早く見つけ出して何とかして貰わないといけない。
 莉彩が焦りにも似た気持ちで先を急ごうとすると、背後から男の声が追いかけてきた。
「おい、一体どこにゆくつもりなんだ?」
「放っておいて。こんな馬鹿げたことは、すぐに止めて貰いたいの、ただそれだけ」
 莉彩は振り向こうともせず、歩き続ける。
 途中で向こうから歩いてきた若い男とぶつかりそうになり、物凄い顔で睨まれた。
 身なりが粗末なものだから、庶民なのだろう。職人風のその男は、莉彩の連れが高貴な身分の男らしいと判り、絡んでくることもなく舌打ちして通り過ぎていった。
「良い加減にしないか。どこに行くか当てはあるのか? 闇雲に歩き回ったって、どうにもならないぞ。それとも、また荷馬車にぶつかりそうになりたいとでも?」
 莉彩の歩みがふいに止まった。弾みで、後ろから付いてきた男が莉彩の背中にぶつかりそうになる。
 莉彩は、くるりと振り向いた。
「ねえ、これは悪い夢ではないの? 私、どうかしちゃったのかな。信じて貰えないかもしれないけど、私が住んでいた世界は、ここじゃないのよ。ここは―韓国、ううん朝鮮でしょ? 今は何年くらいで、この時代を治めている王さまは誰なのかしら」
 莉彩もこの事態が次第に現実らしいと認識し始めていた。いや、本当はまだ信じたくはないのだが、行けども行けども、周囲の光景は変わることはなく、人々の身なりはすべて韓流時代ドラマの中のよう。それに、ロケにしては、あまりにもよくできすぎているし、夢にしてはリアルすぎる。
「そなたの申すことは、まるで謎解きか暗号のようだな。私には皆目判らぬ。だが、そなたが記憶喪失でゆく当てがない娘であることは判った」
 男の眼には憐れみが浮かんでいる。
 莉彩はムッとした。
「冗談じゃないわ。私は記憶を失ってなんかいません。名前は安藤莉彩、二十一世紀の日本から来た正真正銘の日本人です」
「日本とは倭国のことか?」
「倭国、この時代にはそんな風に呼ばれていたのね。ごめんなさい、私、歴史はあまり詳しくないの。卑弥呼の時代に日本が倭と名乗っていたことくらいは知ってるけど」
 こんなことなら、真面目に日本史や世界史を勉強しておけば良いと本気で後悔してしまった。
「とにかく、私の知り合いの家に案内しよう。その珍妙な服はあまりにも目立ちすぎる」
 男のまなざしにはあからさまな好奇心があった。
 今日は慎吾と一ヵ月ぶりに逢う約束をしていたのだ。莉彩は精一杯、おめかししてきたつもりだった。アイボリーのコットンのカットソーにざっくりとした薄手のニットのチュニック。チュニックの色はパステルピンクで決めてみた。ボトムは膝より少し上のフレアースカートで紺地に白い小花が散っている。オーガンジーのふんわりとした生地が優雅さを出してくれる。
「その、何というか、珍しいだけでなく、あまりに刺激的だ」
 男の視線が莉彩の剥き出しになった、すんなりとした白い脚に注がれている。現代ではこれが普通で、特に刺激的などではないが、はるか昔の朝鮮王朝時代では確かにそう言われても仕方ない。
「眼のやり場に困るのだ」
 そういえば、先刻、ぶつかりそうになった若い男もいやにじろじろと脚の方ばかり見ているなと気になっていたけれど、まさか、この格好が刺激的すぎるからだとは思わなかった。
「私が生きる時代では、これが普通なのに」
 国ばかりか、時代まで違うとなれば、見るもの聞くものすべてが違っていて当然。とはいえ、あまりにも苛酷すぎる現実に、莉彩は思わず涙が滲んできた。
「どうした、泣いているのか?」
 男の声音に狼狽が混じった。
「いや、済まなかった。悪気があったわけではないのだが、そのような目立つなりをしていると、そなたの身の危険にもなるゆえ、申したのだ」
 男は莉彩の手を掴んだ。
「とにかく、早く行こう」
 確かに莉彩の格好は、道行く人の興味の対象となるらしく、殊に男たちの視線は莉彩の脚許に釘付けになっている。
 男に半ば引っ張られるようにして連れてゆかれたのは、町中にある立派な屋敷だった。
 これもまたドラマに登場するような代表的な朝鮮時代の建築で、塀にぐるりと四方を囲まれた屋敷には両開きの門があり、そこから邸内に入るようになっている。屋敷の扉や柱のあちこちに〝寿永長福〟とか書かれた縁起の良いお札が貼り付けてある。
 男の身なりから、相当の地位にある人だろうとは察しをつけていたが、このような立派な屋敷に住まう知り合いを持つからには、やはり男自身も身分のある人物なのだろう。
「臨尚宮(イムサングン)、臨尚宮」
 男が声高に呼ばわると、ほどなく屋敷内から一人の女性が現れた。
「まぁ、これはチュ―」
 言いかけた女性に向かい、男はシッと人さし指を唇に当てた。
「莉彩(イチェ)。この者は、かつて私の乳母を務めていた者で、臨淑妍(イムスクヨ)という。信頼できる人だから、ここにいる間は何でも相談すれば良い」
 男は気軽に女性を紹介すると、淑妍に言った。
「少し部屋を借りたい。後は、この娘に何か着るものを適当に準備してやってくれ」
「畏まりました(イエ)」
 淑妍は頷き、侍女を呼ぶと、二人を部屋に案内するように言いつけた。
 通された先は、ゆうに十畳の広さはある室であった。