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約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅰ

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「そのことは十分に承知しておりましてございます。不注意はこうして伏してお詫び申し上げます。されど、私どもも生きておるのでございます。この商品が定められた刻限に間に合わなければ、一家揃って首を括る羽目になるところでございました。商いをせねば、明日、いや今日の米さえ買えぬほど貧しい者の苦労が畏れながら、あなたさまのような生まれながらの両班(ヤンバン)のお方にお判りになるはずがごさいませぬ」
 頭を地面にこすりつけながらも、老人は怖れも知らず訴え続ける。
 男が唸った。
「無礼者めが。自らの過ちを殊勝に認めるどころか、そのような聞き苦しい言い訳をするとは」
 老人の物言いは、男の怒りを更に募らせたようだ。端整な貌を朱に染める男に、莉彩は首を振った。
「どこのお方かは存じませんが、危機をお救い下さったことに心からお礼を申し上げます。でも、見れば、あちらの荷馬車を轢いていた人はお年寄りです。もうどうかそれ以上、お怒りにならないで下さい」
「さりながら、あの者はそなたの生命を奪おうとしたのだぞ? そなたが九死に一生を得たのは単に運が良かったからにすぎぬ。大方の場合、このようなときには荷車に当たっていただろう。そうなれば、そなたは今頃、物言わぬ骸となり果て、道端に転がっているところだ。そのように容易く許しても良いのか」
 男の怒りも言い分も道理だ。しかし、どう見ても齢七十を過ぎた老爺が頭ごなしに怒鳴られているのは忍びない。
「この人の言うことも、理屈としては間違いはありません。生きるためには人間は皆、働かねばならないし、もし今日、品物が間に合わなければ、一家全員が路頭に迷うことに―」
 そこまで言って、莉彩はハッとした。
「お爺さん、あなたはここでこんな言い合いをしている場合ではないのでしょ? 早くにその荷車に積んだ商品を取り引き先に納めないと駄目なんでしょう」
「仰せのとおりにございます。慈悲深いお嬢さま」
 老爺は低頭したまま言い、ふと顔を上げた。莉彩を見た老爺の細い眼が見開かれる。
 皺深い面に〝おや〟という表情がひろがった。
「お前さんは―」
 しかし、生憎と莉彩には見憶えのない顔だ。
「どこかでお逢いしましたか?」
 莉彩が小首を傾げると、老人はじいっと彼女の顔を見つめた。ぐっと近づき顔を覗き込む。眦の皺に埋もれた細い眼(まなこ)の奥に鋭い光が閃いた。一介の商人というよりは、あたかも人相見のような人の心の奥底を見透かす視線だ。
 思わず後ずさった莉彩を守るように、男が老人の前に立ちはだかった。
「そんなにご心配なさいますな。私は賤しい身分にはございますが、これでも少しは人相見のようなことも致しましてな、興味を引かれたお方の観相をすることがございます」
 老人はかすかに眼をまたたかせた。
 その細い瞳が再び穏やかさを取り戻す。
「ホウ、それでは、そなたはこの娘に興味を持ったと申すのか?」
 老人の言葉に、男もまた興をそそられたようであった。
 ホッと胸を撫で降ろす莉彩に、老人はにこやかに告げた。
「実に珍しい相をなさっております」
「というと?」
 勢い込む男に、老人は更に莉彩の顔をじっと見つめる。真正面からだけではなく、あらゆる角度から吟味するように眺めた。その両眼に再び鋭い光が戻っている。
「フム、やはり、そうでございましたか」
 老人は一人で納得したように頷き、今度は男に向き直った。
「観相はあくまでも人相を観るものであり、私は占い師ではございません。時に私が告げたことが、その方のこれからの一生を左右するときもございます。ゆえに、申し訳ございませんが、今、ここでその内容をお教えすることはできかねます」
「人生を左右するほどの重大事なら、尚更、当人に告げるべきではないのか。もし、今後、その身に起こり得ることが予め予見できれば、不幸を回避することができる」
 男が食い下がる。老爺は穏やかな表情で緩やかに首を振った。
「もし明日、自分に不幸が降りかかると知れば、その人は心穏やかに過ごせるでしょうか。旦那さま、私の告げる未来は、恐らくは誰にも―天でさえもが変えることはできぬものです。人には知らなくても良いこともございますゆえのう」
「では、そなたは、この女人に近々、不幸が降りかかると、そう申すのだな」
 念を押すように言う男に、老人は笑った。
「いいえ、私はけして、そのようなことは申してはおりませぬですよ、旦那さま。ただ、そのお嬢さまにとっては知らなくても良いことですから、申し上げる必要はないと言っているだけにございます。ええ、知る必要なぞ、さらさらございませんとも。そちらのお嬢さまにも、旦那さまご自身にも」
 何かこの老人に訊ねなければならないことがあるような気がして、莉彩は口を開いた。
「あの」
 老人が頷きながら、笑みを浮かべた。
「はるかな時を越えておいでになったお優しいお嬢さま。どうか、今、御髪に挿している簪を大切になさいますように。その簪は、お嬢さまとあちらの世界を繋ぐための大切な鍵にございますよ。そして、私からの忠言にございますが、今度、めぐり逢われるお方の手を二度とお放しなさいますな。先刻、私は未来を変えることはできぬと申し上げましたが、後世の歴史で語られている出来事なぞ所詮は勝者の都合良きように作られたものにございます。真実は存外に史書では語られぬことが多い。ゆえに、歴史の表舞台から去っても、裏側で逞しく生きていった人たちもいるでしょう。折角、天が再び引き合わせて下されるのですから、そのご縁を大切になさって下さい」
「それでは、そのいずれ再会するはずだというお方は、今、どこにいらっしゃるのか―、せめてそれだけでも教えて下さいませんか?」
 莉彩が懸命な面持ちで問うても、老人は首を振った。
「時がいずれ、示して下さいますでしょう」
 老人は深々と莉彩に頭を下げ、更に男にも頭を下げた。
「それでは、私はこれにて失礼致します」
 小柄な老爺は御者台に戻ると、荷車を引いて悠々と去っていった。
 もし、ここに莉彩の父がいたとしたら、恐らく腰を抜かしたに違いない。何故、現代の韓国にいたはずの町の露天商が五百年も前の朝鮮に存在するのだと更に混乱を来すだろう。
 愕くべきことに、この老爺は紛れもなく莉彩の父にリラの花簪を売りつけた露天商だった。だが、莉彩がそのようなことを知るはずもない。
「全く食えない爺さんだ。あのような怪しげな爺さんの申したことなぞ、気にすることはなかろう」
 莉彩が考えに沈んでいると、男が慰めるような口調で声をかけてきた。
 その時初めて、改めて莉彩は自分を取り巻く周囲の異常さに気付いた。自分を助けた男の纏っている服、先ほどの老人の格好―、すべてが現代のものとは違う。
 いや、この二人だけではない。往来を時折行き過ぎる通行人は皆、この二人と似たような格好をしていて、その身なりは莉彩がよく知っている二十一世紀の日本のものとは全く違うのだ。
 莉彩は眼の前の男をよくよく見た。