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約束~リラの花の咲く頃に~・邂逅編Ⅰ

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 自分はこのまま車に轢かれて、死んでしまうのだ。十六年しか生きられなくて、しかもこんな亡くなり方をするなんて、何という親不孝者なんだろう。
 脳裡を嘆く両親の姿がよぎる。人前で感情を露わにすることのない父はぐっと歯を食いしばるだろうし、涙脆い母は感情を抑えられず、人眼もはばからず泣くだろう。
 遠くで慎吾の呼び声が聞こえていたようにも思うけれど、莉彩には定かではなかった。
 ただ、自分をしっかりと両腕で守るように抱え込んでくれたそのひとの力強さだけは、ちゃんと憶えていた。
  
 莉彩を轢こうとしたセダンが相変わらずの猛スピードで走り去った後、慎吾は茫然とその場に立ち尽くしていた。
「嘘―だろ」
 慎吾は我知らず呟いた。
 思わず自分の頬をギュッとつねってみる。
 それから一度眼を閉じて、更にゆっくりと開いてみても、現実は何も変わらなかった。
 そんな馬鹿なことがあるはずもない。莉彩がたった今、通り過ぎたあの車に轢かれそうになったのを、自分は確かにこの眼で見た。
 時間にすれば、ほんの数分どころか、何十秒というわずかな間の出来事だったろう。その間に、確かにそこにいたはずの少女が突然、姿を消してしまうなんて。
 それとも、自分は何か悪い夢でも見ていたのだろうか。莉彩に逢いたい一心で心逸っていたから、ありもしない幻影でも見たというのだろうか。
 だが、既に時間は午後三時を回っている。莉彩との約束の時間は二時半だった。莉彩の性格からして、この時間になって待ち合わせ場所に来ていないことは考えられない。
 慎吾は取るものもとりあえず、待ち合わせ場所の橋のたもとへ向かった。しかし、そこにも莉彩の姿はなかった。
 慎吾は夏でもないのに、背中に冷たい汗が滲むのを感じた。莉彩は危機一髪で車に轢かれるところだった。それを考えれば、むしろ、自分が見たあの怖ろしい光景が夢であった方が都合が良いのは判っている。
 でも―。慎吾には何故か素直に歓べなかった。
 あれは断じて夢などではない。紛れもない現実のはずだ。だとすれば、莉彩は一体、どこに行ったのだろう。
 安藤莉彩が突如としてこの世から姿を消した―後に〝高一少女、謎の行方不明〟とニュースや新聞でも取り上げられた失跡事件の始まりだった。
 後にその時、セダンを運転していた初老の男も警察で事情を聴取されることになったものの、彼の言い分もまた
―道を横切ろうとして車の前に現れた少女が忽然とかき消すように姿を消した。
 と、その一点張りだった。
 警察から任意出頭を求められるまで、その男性は少女があまりにも劇的に消えてしまったので、慎吾同様、悪い夢を見たと思い込んでいた。
 事件の目撃者はたった二人、セダンを運転していた男と失踪した少女のボーイフレンドだという少年だったが、やはり、彼も莉彩が眼の前で突然、いなくなったのだと語った。
―まるで空間が割れて、その隙間にすっぽりと吸い込まれてしまったような感じでした。
 真顔で語った少年は、当初、警察では正気を疑われ、挙げ句に彼が少女拉致もしくは誘拐と拘わりあるのではと疑われもしたが、後に彼は事件とは無関係だと証明された。SFを読み過ぎの妄想癖のある少年のたわ言で片付けることはできなかった。何しろ、彼ともう一人、分別盛りの大人が同じことを供述しているのだから。
 警察では多数の捜査員を動員して安藤莉彩の捜索が続けられたが、数日を経ても依然として少女の行方は判らずじまいだった。
 十月半ばの薄曇りの日の出来事で、その夜はまるで空が泣くように雨が降り始めた―。

―もう、駄目。
 固く眼を閉じた莉彩がいよいよ最期の瞬間が来るのを覚悟したその時、力強い腕が莉彩を抱きしめた。
「危ないッ」
 若い男のように聞こえる声は、しかし、聞き慣れた慎吾のものではなかった。
 それでもまだ、莉彩は眼を開けられなかった。恐怖のあまり、身体は震え、身体中に冷や汗が滲んだ。
 だが、予想に反して〝その瞬間〟は一向に訪れなかった。更に幾ばくかの刻が経過した。
 莉彩にとっては果てしない長さのように思われたが、現実にはたいした時間ではなかったはずだ。なおも現実を避けようとするかのように眼を閉じ続ける莉彩の髪をそっと撫でる手のひらがあった。
「もう、大丈夫だ」
 深い、心に滲み入るような声音に、莉彩はそっと眼を開く。視界に映じたのは、見知らぬ男の貌であった。年の頃は三十そこそこくらい、抱きしめられた腕の感触は逞しいという形容がぴったりだったけれど、顔立ちは存外に整っている。
 いや、整っているどころではない。そこら辺にいる並の女よりはよほど美しいと思えるであろう端整な風貌であった。かといって柔弱な優男といった印象ではなく、精悍さと優美さが絶妙のバランスで調和した天性の美貌である。
 莉彩も女性にしては背の高い方だという自覚はあるが、男は更に頭一つ分高い。百六十センチの莉彩がはるかに見上げるほどだから、ゆうに百七十五はあるに違いない。
 ふいに違和感を憶える。
 莉彩の視線が男の全身を忙しなく辿った。
 男は帽子を被っているが、現代ではあまり見かけないタイプのものだ。強いていえば形そのものはシルクハットに似ていないこともないが、顎の部分(顎紐が来る場所)に、紐の代わりに玉を連ねたような首飾り状のものがついている。更に男の着ている服は何とも奇妙というか珍妙だった。
 これも見かけは着物に似た丈の長い上衣をゆったりと羽織り、その下には白の下着(上下に分かれているようだ)を纏っている。
―この服装は、どこかで見たことがある。
 莉彩は首をひねった。記憶を手繰り寄せようとしても、なかなか思い出せない。そんな莉彩の耳を突如として怒声が突いた。
「一体、どういう了見なのだ! 天下の往来をそのように気の狂った猪のように無茶苦茶に走ってくるとは正気の沙汰とは思えぬ」
 ハッと我に返ると、先ほどの男が腕組みをして仁王立ちになっている。その真ん前には荷馬車が一台、立ち往生していた。男は丁度、その行く手を塞いでいるようにも見える。
「お、お許し下さいませ。私は様々な布を扱う商人にございます。商品の納期がかれこれ数日近く滞っておりまして、一刻の猶予もない状態だったのでございます」
 荷馬車を駆っていたかと思われる男は、老人だった。白髪に豊かな眉、顎髭ともに雪のように白く、どことなく仙人とはこういう風貌をした人なのではないかと思えてくる。
 幾多の風雪を経てきたことが、彼の面に刻まれた無数の皺で判る。
「そのようなことは言い訳にはならぬ。そなたはひと一人の生命を奪うところだったのだぞ! もし私が助けなければ、この女人は間違いなくお前の操るこの車に轢かれていたはずだ」
 男は怒気を含んだ声で鋭く指摘すると、莉彩を振り返った。
「幸運にも事なきを得たゆえ良かったようなものを、万が一にもこの女人を轢いていたら、何とする」
 老人はその場に這いつくばった。