怪談
「何言ってるのよ。ただそう見えたってだけで、まさかお化けとかそんな風に思ってるんじゃないでしょうね」
「いや、そういうんじゃないけど、ただ何と言うか…。これでも私、あなたの事心配してるのよ」
「そう。」
「何よ、その素っ気ない返事」
「もういいわ。さっ、あなたもカプチーノが冷めちゃうわよ」
話はそこで終わった。二人は各々の皿を口に運んだ。A子のアップルパイは、甘さと苦みが絶妙で、とても美味しかった。時間も忘れてしまうようで、二人はお互いの世間話に花を咲かせていた。そして気付けば二時間が経とうとしていた。
「もういい時間ね。今日はありがとう」
「私が誘っただけだから。それに、一人で入るのも何だったしね」
二人はそこで別れたが、二人とも落ちたほっぺたを戻すのに苦労していた。A子は暗い夜道を進んだ。彼女の脇をいくつもの車がすり抜けていった。彼女は車が通り過ぎていく度に目を細めた。ヘッドライトが妙にまぶしく感じたのだ。
目の前にアパートが現れた時、腕時計を確認したらすでに九時を回っていた。どうも長く話し過ぎたようだ。上を向けば、少しばかり細身の月が群青の空にぽつんと浮かんでいた。やがてそれは、見ているうちに黒い雲に覆い隠されてしまった。今はその間を縫って、幾筋かの光が漏れているだけである。
A子の横には例の一軒家が座っでいた。誰もいないのに重い腰を上げられずにいる。昼間の姿とは違い、夜は真っ黒な装束に、微かな月光が窓にちらちらと反射していた。何とも言えない異様さ。
急に風が寒くなった。月はいよいよ姿を消した。A子は不意に寒さが脚を伝って上って来るのを感じ、その後は逃げるように、すぐに自分のアパートに姿を消した。
そしてその何分か後である。雨が降ってきた。
次の日の朝、A子は珍しく早起きをした。変な胸騒ぎがしてよく眠れなかったのだ。ベッドから起き上がると、顔を洗い、歯を磨き、朝食を平らげていつものように出勤していった。アパートから出ると外は雨が降っていたので、彼女は水色の傘を広げて道をそそくさと歩いていった。この時彼女は気が付かなかったが、隣の芝生には何か工事用の車両と、銀色のポールその他が転がっていた。
思い掛けない事に、今日の仕事は意外と早くに片付いた。そんな事を思いながら、彼女は職場から帰る途中にあるスーパーに足を運んだ。恐らく、部屋の冷蔵庫にはろくな物が残っていない。良くてキムチとチーズ。カートには様々な食料がどんどん放り込まれていった。昨日の喫茶で好感触だったアッサムティーもその中に入っていた。
もうそろそろ五時を回ろうかという頃、A子はパンパンになったエコバッグを右手に提げ、左手は傘を差しながら、アパートの前の一軒家を通り過ぎようとしていた。彼女が驚いたのは、その一軒家の周りに頑丈そうな足場が組まれ、ヘルメット姿のおっさん達がいそいそと作業していた事だ。昨日とは打って変わったその姿に驚き、これが急な話だったので彼女は面食らっていた。そして彼女は、家の前で旗振りをしていたおじさんに、何をしてるんだと尋ねた。
「見りや分かるでしょ?工事するの。ずっと空き家なのに、誰も住もうとしないからね」
「空き家ですって?それ本当?」
「五年も前からね。だから取り壊すの」
「取り壊し?馬鹿な事言わないで下さい!ここには私の娘がいるんですよ!」
「…娘?ははっ、あんたこそ馬鹿な事言いなさんな。五年来誰もいないんだよ?昨日見て回った 時だって誰もいやしなかったよ。床の下にも、屋根の裏にもね。ああ、邪魔になるからどいて! オーライ、オーライ…」
彼女には何が何だか分からなかった。あの時見た顔は確かに自分の娘だった。それが五年来誰もいなかったというのは…。雨の音は次第に強くなっていた。おぼつかない足取りでアパートまでの数メートルを歩く。その横ではトラックが芝生に乗り込んでいる。ようやく部屋に入った時には、彼女の頭の中は深い錯綜状態にはまっていた。渦巻く謎、しかしその片隅ではある考えがまだ息を潜ませていた。
『あの家には娘がいる』
陽が完全に姿を消した。とは言うものの、昼間だって太陽が見えた訳ではない。窓の外では以前、雨が強く芝生を、そしてアスファルトを打ち付けていた。彼女は座布団に、まるで人形のように身動ぎもせずに落ち着いていた。とは言え、心の中ではいまだにカオスが渦を巻いていた。視線はただ虚空を、そしてその先の一軒家の窓を見つめ続けていた。足場が家を取り巻いていたが、その窓の全景だけは辛うじて守られていた。
時計が八時を示す頃になると先にも増して雨が激しくなり、遠くの方では時々雷光もちらつくようになった。
それは一瞬の出来事だった。さっきまで何ともなかった空がいきなり白く縛き、それに少々遅れて耳を破るような雷鳴がこだました。彼女は驚きのあまりに僅かだが日を閉じた。その一瞬、いつの間にか、窓の向こうに待ち佗びた影が佇んでいた。彼女は操り人形のように、半ば取り憑かれた心持ちで座布団から立ち上がり、ふらふらと玄開口から傘も持たずに土砂降りの下へ向かった。
予想以上の雨足に閉口したが、彼女はほぼ呪術的な足取りで隣の家を目指して歩いていた。空は暗い。雨のせいで少し白くも見えるが、雷が轟く度にそれが偽物だと分かる。彼女は例の窓に目をやった。
心臓が止まりそうになった。女の子は窓から身を乗り出して、外に組まれた足場に立とうとしているではないか。それはいかにも危なっかしい、すぐにでも足を滑らせてしまいそうだ。胸の高鳴りを抑える暇もなく、彼女は雨の中を走った。それは過去の悲劇だった。
『もうやめて』
一軒家の中は真っ暗とは言わないまでも、何処かの隙間から漏れ入ってくる外の灯り意外には何の光もなかった。途中、色んな所で転けそうになりながら、やっとの事で階段を探し当てた。それを息も切れ切れ駆け上がって、いくつもある部屋のドアを手当たり次第に開けた。
三つか四つ目くらいでようやく部屋を見つけた。ドアを開けた瞬間に、四角い窓の影が見えて、その外には少女がポッツリと立っていた。
またもや大きな雷が轟いた。白い光に映し出された黒い影は、思ったよりも小さくて貧弱だった。次の瞬間、その小さな黒い影が大きくぐらづいた。雷に驚いたのか何だか、バランスを失って今にも落ちてしまいそうだ。彼女はとっさにその少女の方へ走り寄った。とにかく、もう娘の死に目には会いたくなかった。彼女が先か、少女が先か。
短い距離だった。彼女の手が少女の衣服に触れた。しかし、彼女が全力で走ったためにその勢いは落ちることなく、そのまま突っ込んで行ってしまった。腰の辺りが金属の窓枠にガンと当たった。彼女の手はその少女に触れたが、そのまま少女の体を押し倒した。何を考える間もなく、少女はそこから逆さまに落ちていった。普通なら、その後にドサッとでも音がするはずだが、その時は雨の音に消されて何も聞こえて来なかった。彼女は窓から身を乗り出して、下の様子を伺った。