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ゴールドベルクとキンモクセイ

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 というところで、僕は自分がベッドから落ちて床に突っ伏しているのを確認した。また一日がスタートした。

 午後の授業が辛いのは当たり前だ。当たり前田のクラッカー…。昨日とは打って変わって、空は気味悪いくらいに晴れ上がっていた。ペンキでも塗ったような青空に、サーチライトのような太陽が燦々と輝いていた。そのサーチライトに僕は照らされていた。おかげで眠いのだ。太陽を直視してはいけないと皆言うが、僕はついつい太陽に目を凝らしてしまう。よく考えてみれば、太陽ほど僕らに見えにくいものはない。写真なんかで目にはするが、僕はその度に自分の目で見てみたいと思う。それが叶わないのは、ヤツが眩しすぎるからだ。どんなに頑張ってみても目はチカチカするし、そのうちに痛みを伴ってくる。目が痛くなるのは太陽がそれを恐れているからで、どんな書物にも載ってはいないがそれは人類の禁忌なのかも知れない。何だか話が大きくなってきた。でも、あの溢れんばかりのエネルギーを前に、人間がもしも太陽を見続けられたら、その時僕は、全く別の何かを見ることが出来るような気がしてならない。生きとし生けるものの神秘、宇宙の万物の法則、何かそういったとてつもないものを、彼は見せてくれるかも知れない。しかしそれは勿論、自分の現実的な視力と引き替えにだ。
 今日は一日が早い。もう学校が終わった。バッグを背負って帰ろうとすると、誰かが僕の肩を掴んでぐいと引っ張った。予感はしていたのだが、それはやっぱり飯田だった。うわっ、デジャビュ!
「何考えてんだよ。お前、今日も帰るつもりか」
 耳の痛いことを言われたのよりも、夢で聞いたセリフがそのままだった事に言葉が出なかった。
「だから、用事なんだって…」
「はっ!知るかそんなもん。このままで済むと思ってんのか?こっちは必死に部を考えてやってるって言うのによ」
 そう言われて何だかカチンと来た。いつもなら冷静にこらえて対処するところを、今だけはドカンと噴火でもしてやりたい気分だった。だったのだが、
「そんなこと言われたって、どうしろってのよ」
「来い。ブカツ」
 まさか噴火できるはずもないのだ。この公衆の面前で。このソサイエティの中で。
「ホントに、今日は勘弁して下さい!」
 ちょっとした沈黙。その後、
「…あっそ」
 その言葉にすかさず、僕は後ろを振り向いて歩き出した。だが、その僕を追うようにして飯田の言葉が耳に入ってきた。
「後で白い目で見られるのは誰かな」
「てめぇだ、クソが」
「何だって?」
「何でもないッス!」
 カムヒア、巨神兵!飯田も小森もろともペシャンコになっちまえ!捨て台詞を捨て、そのまま僕は階段を転がり落ちるようにして下りた。走った。逃げた。バス停までダッシュすると、そこにはもう先客がいた。訝しげな目で見ているのは宮川さんだった。
「どうしたの?」
 整わない息で、僕はゼエゼエと答えた。
「飯田から逃げてきた。仲悪いんだ。だから君も僕とは喋らない方がいいよ」
「えっ、どうして」
 なぜか、彼女は面白そうに聞き返してきた。何が面白いのか分からないが。
「だって、君彼と付き合ってるんでしょ?」
「何それ?誰から聞いたの」
「だって、この間バスで隣に座ってたじゃん」
「ああ、あれ。空いてたから座っただけよ。ちょっと混んでたじゃん」
 いささかショックだった。そんな簡単に切り返されるとは。いや、絶対にウソだ。
「ウソだぁ。女子がそんな簡単に男の隣に身を寄せるもんかよ」
 これを聞いて、彼女はいよいよ面白そうな顔をしてみせた。
「変な言い方ね。私はそういうのあんまり気にしないけど、何なのかしら、そういうのって男子の方が過敏だよね。そういう人達見てると、いかにも肩身が狭くて窮屈そうな感じがするんだけど…。それとも私が鈍いのかな」
 ディープ・インパクト。僕は、それまで会った人間とは明らかに違うこの女性を、何か異質なものでも見るような目で見ていた。彼女は、今まで僕が築き上げてきた体系を、あっさりと軽々壊してみせた。
「あなたもそうなの?」
「…分かんない」
 何と答えて良いのか分からなかった。それでも、この動揺を表に出さないだけの気力は備わっていたようだ。
「まっ、いいや。ああ、そう言えば」
 と言って、彼女は手提げの中をゴソゴソやり始めた。そして何かを見つけて、
「これ、ありがとう」
 と差し出された物は、僕が貸した『ゴールドベルク』のCDだった。
「何だか良い曲だった。長かったけど、聴き応えあったよ」
 話の展開について行けてなかった。その言葉が理解できたのは五秒ほど遅れてからだった。素直に、この曲を理解してくれる人がいて嬉しかった。しかも同じクラスで。僕は一気に、彼女に並々ならぬ親近感を覚えた。
「でも、なんで最後にアリアが帰ってくるんだろう」
 彼女の呟きが、僕の心の中で幾重にも共鳴して、折り重なって、いつまでも鳴り響いていた。あのアリアと一緒に。
 それはまさに謎でしかなかった。「形を整えたかった」というだけでは説明できない何か、必然のようなもの。そうでしかあの曲は完成し得なかったと思わせる何か。
 いつの間にかバスが来て、そして去っていった。彼女はいなくなっていた。バスに乗っかって行ったのだろうが、僕には先程までの会話が、幻のように思えた。本当に僕は彼女といたのだろうか。隣にはその余韻さえ残ってはいない。風が吹いているだけ。
 何分も経たないうちに次のバスがやって来た。僕はそれに飛び乗った。いつまでもそこにいるのが、何となく恐ろしく思えたからだ。バスは発車した。僕は適当に場所を見つけて座った。知った顔は一人もいなかった。

 社宅の前。濃厚な匂いが充満していた。ついに咲いたのだ、キンモクセイの花が。オレンジの花はこれ見よがしに咲き誇っていた。真打ちが来てやったぜ、という感じ。僕はその芳香を胸に、懐かしさで心を満たすはずだった。
 しかし、そうはならなかった。
 その香りは、昨年までのそれとは明らかに異なっていた。どこがどうとは言えないのだが、しかしはっきりと違う匂いがしていた。僕は不安になった。日常が転覆してしまう不安だ。さっきだってあんな異常事態が起こったのに、自分が知っている自分の日常がこうも簡単に揺り動かされてしまうなんて。それでもキンモクセイは、その甘ったるい香りを僕の鼻に突き刺して止まなかった。まるで、お前もここまでだ、と残酷な宣告でもしているように。
 「無常観」そんな言葉が頭をよぎった。いつまでも変わらないものなど、この世には存在しない。その事実は、あのアリアを僕の胸の中に奏でた。

 それは祈りの調べ。敬虔な祈りの調べだ。それは「現在」に執着する祈りではなく、次なる「未来」に向けての祈り。音楽は演奏される度に新しく、その姿を変えていく。同じ演奏など二度と繰り返すことは出来ない。『ゴールドベルク変奏曲』も、そのアリアは次から次へと姿を変え、曲そのものも、奏でられる度に新しく生まれ変わっていく。