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ゴールドベルクとキンモクセイ

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 しかし今日の僕には、そのような愚痴を呟いている時間もそれ程ない。僕は宮川さんが一人になったのを見計らって、手にCDを携えて近付いていった。
「あの、宮川さん、これ昨日言ってたCD」
「えっ、ああ、ありがとう」
 これが僕のシチュエーションだった。飯田はクラスが違うので心配ない。他の女どもと喋っているところに割っていくと、決まって変な目で見られるから良くない。やはり一人になったところを狙って行くしかなかった。
「すぐに返すね」
「そんなに慌てなくてもいいから」
 昼休みが終わった。

 今日も部活には行かない。坂を下っていると、手に提げた雨傘がうっとうしくなってきた。雨はとうに止んでいたのだ。雨が降らない時、傘は蹴られるか、杖になるか、チャンバラの道具になる。大人な選択は、手に持つだけ。僕はそれを選んだが、とうとう手持ちぶさたになって、最終的に杖の代わりになっていた。まだまだ大人にはなれないと思った。
 バスに乗り込むと、中は驚くほど空いていた。ポツリポツリと乗客が二、三人いるだけだった。僕は目の前の席に腰を下ろした。すぐ前には年配のおばあさんが座っていた。膝に小さな包みを乗っけていて、時折車窓から外を眺めていたが、外と言っても、そんな大した眺めではなく、似たようなビルディングが次から次へと後ずさりしていくだけだった。
 前に誰かから聞いたような気がしたのだが、バスの揺れというものは、赤ちゃんがまだ母親のお腹の中にいる時に体験する揺れ(恐らく心臓の鼓動か何か)と似ているのだそうだ。よく、バスに乗っかると眠くなるという人がいるが、曰く、それが原因なんだとか。真偽の程は定かではない。ただ、そうやって考えていると、妙に安心して眠くなってくる。うつらうつら、頭をこっくらこっくらとやっている瞬間が何と幸せなことか。落ちてしまいそうで落ちない、狭間を往ったり来たりするのは、睡魔の猛威と共に、もうどうなってもいいや、という投げやりな気分に身の全てを委ねられる贅沢だ。しかし、そんな幸福な時間は結構あっけらかんと終わってしまったりする。例えば、バスがいきなりガツンと揺れるとか…。僕はビックリして我に返った。勢い余って前の座席に頭をぶつけた。いくら母の胎内であっても、さっきみたいな破壊的な揺れは起こらないに違いない。いつの間にか、乗客は僕だけになっていた。
 今日は本当に珍しく、そこから先は誰も乗って来なかった。歩く人影はちらちらと目に入ったが、誰も途中から乗って来なかった。そのうち僕は、このバスを独り占めしたような気分になっていた。前にも後ろにも、僕のプライベートを邪魔する人間は運転手以外にはいなかった。何だか、一国の主にでもなったような気分だったが、それはただバスの中にただ一人でいるというだけであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。バスに一人で乗っているだけで、それが別にどうという事はないというのも同じように事実だった。それがうっすらと頭の中でも理解出来るようになると、今度は何だかとても寂しくなってきた。先程まであんなに優しかったバスの空間が、今度は僕を置き去りにするための、またそれには到底広すぎる場所に変わっていた。母親の胎内はこんなにも広いのか。こんなにも孤独なのか。窓なんか開いていないのに、身震いするような寒さが僕を襲ってくるようだった。僕は身を屈めて、両方の手で自分の両肩を抱いた。ちっとも温かくなかった。知らぬ間に僕は眠りに落ちていた。

 人一倍歩いた気分。それもそのはず、目が覚めたのはバスの終点で、運転手さんに起こされた。河田のヤツは終点に着いても起こしてもらえず、そのまま車庫行きになっちまったらしいからそれを思えばまだマシかな。だが、この「終点」というものが僕の家からまあ離れており、通常の時間+徒歩で三十分は余裕である。あぁ、やつれるわ。
 いつもより帰りが遅いせいか、どの家からも夕食の匂いがしてくる。焼き魚、カレー、肉じゃが的な何か。家庭のむつまじい風景が思い起こされる。社宅だって例外ではないはずだが、中には単身赴任でという人もいる。そんな人は、一人の食卓であっても、家族のために頑張っているのかも知れない。冷や飯を食いながら、遠くにいる妻子を思い出して涙を流す人もいるのだろうか。それはないな。ケータイなんて物騒なものがあるのにそんな事は。
 キンモクセイは相変わらずだった。夕食の匂いに紛れてるのかと思ったが、ヤツらの匂いだってそんなヤワなもんじゃない。あと少しすれば、あの甘ったるい芳香が他を押しのけて鼻に突き刺さってくる。オレンジ色の花も咲くだろう。ふと、僕は自分の足元を見ながら、雨上がりにキンモクセイの花がぶち撒かれてどうしようもなくなった地面を思い出していた。雨が降った後には、キンモクセイの花は取れて落ちてしまうのだ。ビシャビシャになって手のつけられなくなった花。色んな人に踏み付けられ汚くなったオレンジ色を思い描きながら、僕は昼間の大雨のことを思い出した。そして同時に、巨神兵と、ぺしゃんこになった小森も。途端に寒気がしてきて、僕はその場を後に、逃げるようにして家に駆け込んだ。


 変な夢を見た。
 僕は宇宙戦艦ヤマトに乗っていた。どこか狭い倉庫の隅っこでじっとしていたのだが、警備の人みたいなのがやって来て、僕を見つけるなり近寄ってきて、肩をぐいと掴んで倉庫から引きずり出した。僕は抵抗したが、大の大人に敵うはずもなかった。第一どうして僕がそこにいたのか分からなかったし、見つけられて抵抗したのだから、これは何か自分は悪い事をしたに違いないと、混乱と納得の板挟みの状態だった。為す術もなく、長くて冷たい通路をズルズルと引きずられていくと、どこかの部屋の前まで来て、そこで僕はまた肩をぐいと掴まれてその部屋の中に放り込まれた。腹這いになったまま、いやに柔らかい床だなあ、と思っていたらそこは絨毯が敷き詰められていて、顔を上げると、前方には体格の良いおっさんが腕組みをして僕を睨んでいた。程なくしてそのおっさんは、「やあ、私が艦長だ」と言ってツカツカと僕の前まで来ると、僕を抱き起こして僕と握手をした。その時初めて、僕は自分が今いる所が艦長室だという事に気が付いた。だから絨毯なのかと。艦長はキリッとしたお顔立ちで、一見するとうちの学校のダンディ校長のようにも見えた。しかしよくよく見てみると、瞼の上には薄いブルーのマスカラ、唇には鮮やかな口紅が施してあった。コイツはもしや、と思った瞬間には、艦長の大きな手が僕の太ももの辺りをさすっていた。「ちょっと時間を下さい」と言おうと思ったが、さすがに言葉が出ず、僕はその時にはもう成りゆきに任せようと覚悟を決めていた。じっくり眺めれば艦長だってそんなに悪い相手じゃない。しかし直後、艦長の口から「何考えてんだよ」という言葉が発せられた時には、その顔はすでに例の飯田の顔になっていた。僕はきょとんとしていたが、そんなものが何のそのという感じで、飯田艦長は僕の横っ面にゲンコツをお見舞いしてきた。無重力だったらこのまますっ飛んでいくのかしら、という興味もつかの間、僕は床に叩き込まれていた。いつの間にか、さっきまで絨毯張りだった床が、冷たい金属の床に変わっていた。