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ゴールドベルクとキンモクセイ

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 人間は、自分が拘束されていると感じると自らを鳥に例えたがるが、それならば僕は自分を雲に例えてやろう。もしも僕が雲だったら、どこまでも漂ってやるのに。そして消えてやるのに。
 いつの間にか、未熟児は視界から消えていた。


 あっと言う間に六時限目まで終わった。本当だったら部活があって帰宅になるのだが、僕は最近部活が嫌になってきた。少なくとも数人は、今にも我が権力を握らん、と殺気立っている。そんな中で、どうやって正常な立ち居振る舞いができるだろうか。僕はそれが嫌だから逃げる。今日は帰る。
「えっ、帰るの?昨日も来なかったじゃん」
 バッグを背負ってまさに帰ろうとしている僕を見つけ、同じ部活の飯田が責めるような口調で言ってきた。殺気立っているその本人だ。『そんなこと言える余裕があったら頭を冷やせ!』と怒鳴ってやりたい所だが、まさかそんな事はできない。いかにも困ったような顔を作って、
「ホントにごめん。用事が立て込んでて」
と言うしかないのだ。
「明日は来なよ。」
「…分かった」
 そんな保証はどこにもない。というか、行く気はさらさらない。明日も用事だ。今決めた。そのまま背を向けて、そそくさと階段を下りて、昇降口で靴を履き替えて、逃げた。長い坂を下る足は、気付かないうちに小走りになっていた。
 坂を下ってから少し行った所に、バスの停留所がある。僕はいつもそこで乗り降りをする。今日は珍しいことに、同じクラスの宮川さんが停留所でバスを待っていた。いつもなら僕一人なのに。
「今は自転車修理中なの」
「へえ」
 そうだ、大体みんなは自転車で通ってるんだ。当たり前の真実に、妙に新鮮味を覚えてしまった。
「××君って音楽聴く人?クラシックとか」
 意外な所を話題にされた。今まで僕に音楽の話題を振ってきたのは、今日ここで宮川さんが初めてだ。
「まあ、多少は…」
「ゴールドベルク変奏曲って知ってる?」
 何だかタイムリーだな、とは思いつつも、この手の話題を持ち掛けてくれた宮川さんを、僕はある種驚きの視線で見つめていた。まあ、ゴールドベルク変奏曲なんて一般ピープルに馴染みの曲ではないから。
「知ってるよ。CD持ってる」
「えっ、じゃあさ、今度貸してくれない?」
「いいよ。明日でも」
 と言ったところでバスが来た。二人とも乗り込んだはずだったのだが、知らない間に彼女が消えている。キョロキョロしていたら、後ろの方の座席で、どこぞの男と隣り合わせで落ち着いているのが見えた。何だか申し訳ないような気がしてきて、僕はサッと視線をそらすと、前の方に行って吊革につかまっていた。ひょっとしたら彼女、平均ラインよりはカワイイ女子だったかも知れない。そんな事を考えながら、同時に僕の頭の中には、宮刑に処された司馬遷の事がグルグルし始めていた。授業で教わったグロテスクなイメージと自分とが重ねられて、とても末恐ろしく感じられた。努めて後ろは向かなかった。僕は当初降りる予定だったバス停の、一つ前の所で席を外した。歩く僕の横をバスが通り過ぎるとき、窓越しに楽しそうな二人が目に入ってきた。それが小さくなって見えなくなると、僕は明日、一体どういうシチュエーションでCDを渡すべきか真剣に考え始めた。何よりも、あの隣の男が例の飯田だったのだから驚きである。
 多少歩くと、周囲は静かになっていた。僕の家は結構田舎にあるため、都会とのギャップが大きい。こうして静かな中を歩いていると、やっと帰路に着いたのだな、と心の底から安心できる。もう一つ言うと、田舎なために、H高校の知っているヤツもあまりいない。それも僕の心を安堵させる要因だ。
 ある社宅のそばを通り過ぎるとき、鼻に刺さるようなキンモクセイの匂いがする。毎年寒くなってくると、道路に面したフェンスの向こうで、沢山のキンモクセイが芳香を漂わせるのだ。僕はこの匂いが好きだ。この匂いを嗅ぐと、また今年も一年が巡ってきたな、と思えてならない。キンモクセイの甘ったるい香りを胸一杯に吸って、また来年も花が咲いて欲しいと願うのだ。今日はまだだが、そろそろシーズンだから、近いうちに懐かしい香りがしてくるに違いない。社宅のそばを通り過ぎながら、そんなことを思っていた。
 角を曲がると自分の家が見えてくる。本当の意味で、僕はやっと生きた心地がしていた。こうして僕は無事に、今日も生きて帰ってくることができた。


 次の日は雨だった。今朝はそんなでもなかったのに、二時限目あたりからいきなりの土砂降りとなった。天のたらいを引っ繰り返したような、とはこの事である。その時はちょうど仇敵である数学の時間で、いつもであればよそ見する暇なんかないはずなのに、そんな事もどこかへ吹き飛んでしまうくらいの大雨になっていた。僕はポカンと口を開けたまま、窓外の叩きつける雨に目を奪われていた。
 灰でも撒いたような薄暗い街並み。おまけに視界の悪さが一層の影を落としていた。毎日見ていたはずのビルの群れが、今日に限ってはとても無気味に思えた。何かのアニメで見た「巨神兵」とか言うキャラクターが思い出されて、背高のっぽの建物が、今にも動き出して街を破壊しながらこちらに向かってくるような気がした。
「おい××!」
 小森先生の雷が教室中に響き渡った。同時に、本物の雷が外の世界を白く染め上げた。
「てめえ立ってろ」
 僕は言われたままにその場に立った。どういった門か分からないが、恐らくボーッとしていたからだろう。それにしても、こういう時に教師という輩は、自分の教え方に問題があるとは思わないのだろうか。教え方が悪いせいで生徒がよそ見するとか、教え方が悪いせいで成績が伸びないとか。もしかしたら他の高校なら先生方にも謙虚な人がいるかも知れない。しかし残念な事に、ここはH高校だ。ちょっとした進学校というだけで、生徒のみならず教師までもが傲り高ぶっている。呆れた話だ。
 授業は続けられた。さっきまでとは空気が一変していた。僕はその場に立ちながら、この事件を一体どうやって話題のネタにするか考えていた。そして、本当に巨神兵が小森を踏み潰してくれないだろうかと祈っていた。次の時限までまだ十五分もあったが、その体育の授業がこの天気のおかげで体育館になることは、僕にとって一つの幸福だった。雨だってそんなに悪いものじゃない。

 昼休み、すなわち大仮面大会の時間だ。みんな思い思いの仮面をかぶって、赤の他人との会話を楽しみつつ嘲笑している。言うまでもなく僕もその一人。
「小森はまいるよな」
「××は何かやってたのか?」
「ボーッとしてたんだよ」
 例外的に、誰かの悪口を言うときだけは仮面が剥がれ落ちる。矛先が誰に向けられていようと、日々の鬱憤を晴らすためには容赦はしない。そういう時だけ仮面は邪魔な存在になる。自分の醜い一面をさらけ出す許しが与えられるのだから、誰も彼も刃を振りかざして悪口雑言の限りをぶちまける。結果的に、その悪口の砲口は大多数に及ぶ。
「ほんと死ねばいいのに」
 この一言で、人間はハイになれる。みんなで言えば、もっと清々しい気分になれる。全くおめでたい生き物だ。