小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ゴールドベルクとキンモクセイ

INDEX|1ページ/5ページ|

次のページ
 
『ゴールドベルク変奏曲』だ。本当の名前は『二段鍵盤のためのアリアと三十の変奏』とか言うらしいが、今ではもっぱら『ゴールドベルク』で呼ばれている。そもそもこの曲は、カイザーリンク伯爵という不眠症の伯爵が「眠れぬ夜のために曲を書いてくれ」とバッハに依頼してできたものらしい。その伯爵のお抱えピアニスト(当時だったらチェンバロ奏者、チェンバリスト)の名前が、あのゴールドベルクで、そこから名前をとって呼ばれるようになったらしい。
 全演奏時間は一時間以上。バッハの数ある作品の中でも、とりわけ巨大な作品である。依頼した伯爵も、まさかこんなとんでもない曲を持って来られるとは思わなかったに違いない。毎晩聴いてれば眠くもなるだろう。
 この変奏曲のテーマとなるアリアは、真ん中にリピート記号を挟んだ十六+十六=三十二小節で出来ている。面白いことに、この構造は変奏曲それ自体の構造と重なっている。どういう事かというと、最初に主題のアリアが演奏され、それに続いて三十の変奏、そしてその後、最初に演奏されたアリアの主題が再び演奏されて幕を閉じる。すなわち、アリア+三十の変奏+アリアという三十二の曲で構成されている。しかも、第十五曲(通算十六曲)目が終わると、次の曲には『序曲』と記されており、ちょうど十六+十六の変奏曲の折り返し地点で、新たな序曲が奏でられることになるのだ。以上の構造で、ゴールドベルク変奏曲は支配されている。
 かのバッハは、例えばこのような数学的な法則性で一時間に渡る大曲を書き上げてしまった。もっと細かく見れば、もっとたくさんの規則性を見出すことが出来るのだが、この曲が真に人を感動させるのはそこではない。僕がこの曲に出会ったのは、今からもう二年も前である。その時もそうだったし、現在でも変わらず僕の胸に感動を呼び起こすのは、アリアが帰って来た瞬間だ。
 大作曲家バッハが心血を注いで完成させたこの曲は、まさに一時間に及ぶドラマの連続だと僕は思っている。喜びがあり、悲しみがあり、笑いがあり、そんなスペクタクルの最後に、人は敬虔な祈りを聴くのだと。最初と最後に現れるあの祈るような旋律は、僕に輪廻さえも感じさせる。人生という回転体の首尾は祈りによって結ばれているのだ。音楽において、同じ演奏というものは二度とない、とはよく言われることだが、まさしくそうなのだろう。アリアが奏でられれば三十の変奏がそれに続くように、人生は祈りと救済によってまた回転を始めるのだが、それらは二度と同じではないのだ。それは人だけでなく、ひいては宇宙全体をも包括する真理を表しているように思えてならない。
 そんな本当の意味で巨大な作品を書き残したバッハが、その後忘れ去られることになろうとは、全く皮肉な話だ。
 
 こんな気の遠くなるような考えに囚われていた日の、その次の日。



「優しさなど、ただのまやかしに過ぎない。愛など、ただのオママゴトでしかない」
「全くだ。我々は目の前に待ち受ける現実を、そのような戯れの観念で腐敗させるわけにはいかない。理想などお遊びだ!」
「ねえ、シュン君、映画見に行かない?」
「パパ!オラエもん買って!」
「どうして?私達、今まで上手くやって来てたじゃないの。…それとも私が悪いの?だからもう嫌になったの?ねえ!」
「こら何処へ行くんだ。駅はそっちじゃないよ…えっ、そっちなの?」
「ええ、カリフォルニア産なんですって!」
 街の中にいれば、きっとこんな会話の端々が耳に入ってくるだろう。僕とは全く無縁のたくさんの人、その様な人々の何ともない日常を垣間見ることができるかも知れない。どこぞのベンチにでも腰を下ろして、大して青くもない狭い空に目をやりながら、行き交う人々の落としていく日常を感じる。老若男女誰でも、その言葉の切れ端から、その人の生きている世界を想像する。自分の二つしかない耳を頼りに、人々のストーリーに思いを馳せるのだ。
 しかし残念なことに、僕は今街の中にはいない。むしろ正反対とも言える、高等学校の中にいる。具体的なことを言えばH西高だ。
「おい笹野、さっきの授業理解できた?」
「いや全然」
 あったとしてもこの程度の会話かあるいは、
「あっ、リンちゃんのシュシュかわいい!」
「ホントだー。なんか超似合ってるよ!」
「えっ、そう?本当は百均なんだけどね…」
 くらいが良い所だ。実際は、もっと軽薄な話題からディープな内容まで多種多様なのだが、どれもありがちな、どこかで聴いたような話ばかりでちっとも興味が湧かない。昼休みなんて、他人が、他人の話す、どこかの他人から聞いたような話題を、適当に調子を合わせながら聞いているだけで、僕から言わせれば大仮面大会の時間である。一人は調子よく喋っているのだが、その周りに集っている連中は皆「何だか似たような話だな」と内心思いながらも、それがばれては失礼だという建前の下で、さも関心あるかのような仮面をかぶりながら心の中では「バーカ」と思っているのだ。もしも嘘だと思うなら友人に聞いてみるといい。みんな口を揃えて『そんな事ないよ』と言ってくれるだろう。それを信じるあなたではもう救い様はないが、自分の喋ってる周りでつまらなそうな顔をしている奴を友人として迎え入れる勇気があるのなら、僕は貴方のことを『勇者だ!賢者だ!』と讃えてやっても良い。
 とにもかくにも、ここはつまらない場所だ。まだまだ五時限目だというのに、制服をかなぐり捨てて街へ飛び出したい気分だ。生徒も授業も教師もつまらない。籠の鳥の方がまだ恵まれてる。何故って、奴らは自分一人だけだから、他人の戯れ言に耳を貸してやる必要もない。しかし、高校の生徒にはそれが必須だ。このソサイエティの中で生きていくには。そこに馴染めずに死んでいった人間を僕は何人も見てきた。そしてその都度、ああはなりたくない、と心に言って聞かせた。そうして今の「自分」がある。だが、誰がこの僕を全くの作り物、偽物だと思うだろう。誰が、今のこの「自分」には一切の僕も含まれていない、その事に気付くだろう。学校とは酷い場所だ。堕ちた人間は二度と戻って来られない。だからこのようなツマラナイ世界であっても、そんな事はお首にも出さず、真実の上に虚構を何重にも塗ったくって、本当の自分が少しでも現れないように良いお顔でいるのだ。僕は知っている。これが真実だと。
「どうした××、何かおかしいか?」
「…いいえ、何でもないです、先生」
 どうしたって、『じゃかしいわ!この薄毛デブ!』とは言えない。僕だって命が惜しい。窓の外を見ると、薄青い空に小さく雲が漂っていた。本当に小さな雲で、赤ちゃんで言ったら未熟児とでもなるのだろうか、どこか心細げにフラフラしている。
 雲は流れる。大きかろうと小さかろうと、あてもなく空中をさまよう。あの未熟児だって例外ではない。強い風に押し流されて、ある程度行ったら消えてなくなってしまうのだろう。もっと大きな雲であったらそんな事はなかっただろうに。途方もない距離を旅したいと、もしも僕が雲だったらそう思う。どこへ行き着くかも分からずに、いろいろな場所を俯瞰し尽くして、最期には消え失せてしまう。