君が死ぬ時には
そうしてまたペンを走らせる。変な話だが、そうは言われても僕には、彼女が明日にはこの世からいなくなっているのではないか、そんな気がしていた。どうしてどうなるのかは知らないが、運命とか言う性悪のせいで彼女の命が奪われる、そんな予感が神経を揺すぶっていた。有り得ない事への恐怖。僕はゾッとした。
外では風がいくらか強くなっており、さっきまで浮かんでいた綿雲も、いつの間にか散って消えてしまっていた。先程までのような風流心は起きなかったが、それが何かを暗示しているように思えてならなかった。それでさえも僕には不吉なものだった。
「もし君が明日死ぬとしたらどうするんだ」
彼女の質問をそっくりそのまま返していた。僕の中では、必要のない焦燥感が気持ちを高ぶらせていた。そんな僕の心配をよそに、彼女は呑気な調子でこう答えた。
「うーん、どうしよう」
明らかに真剣には捉えていなかった。あの深刻さは何処へ行ったのか、それともやはり何かの悪だくみだったのか。挙げ句の果てに、彼女は小さなアクビをした。一人で彼女の行く末を案じている僕がバカらしかった。
自分も勉強しよう、と問題集に手を伸ばした時に、不意にカリカリが止まった。見れば、彼女は再び頬杖を付いて、視線を窓の外に投げかけていた。
「どうもしないんじゃないかな。ただそのまま、自分の運命を受け入れるとか」
彼女は抗おうとはしていなかった。それか、むしろそれが自然なのかも知れない。自分の運命は、自分の手には届かない所にある。その渡されたものを、否応なく受け取らなければならない。それが人間なのだ。というのは最近の現代文の授業で習ったばかりの事項だった。それでも僕だったら、どうにかしようと色々走り回るに違いないのに。
「死ぬことをただ待つだけ?」
「だって、それ以外にしようがないじゃない」
確かにそうだ。僕には彼女のそんな潔さが羨ましかった。そんな所も、僕が彼女を大切に思う要因の一つだ。それに助けられた事だってあったのだ。
「だから知りたかったのかな。私が死んだら、もうこの世界のことは知る由もないけど、誰かが私のために涙を流してくれて、それでいつまでも忘れないでいてくれるなら、私の生きていたのにも意味があったってことなんじゃないかな」
生きる意味だなんて、僕にはそんなものが本当に存在するとは思えなかったが、僕とは違って、彼女には「生」の意味がちゃんと見えているのだろうか。それこそ、知る由もない。彼女の横顔はすっきりとしていた。生命の無駄な部分を削ぎ落としたように、善も悪もない、あるべき人間の顔がそこにはあった。
「それさえあるなら、私は死ぬことに抵抗はしないんじゃないかな」
空はまた静けさを取り戻したようだった。風が穏やかに流れ、一面の青が天上を満たしていた。透き通る青空から、何万光年も向こうの星たちを覗けそうな気がした。
何でも、今僕らの目に届く星の光というのは、実際には何十、何百年も昔に放たれた光なのだそうだ。距離ばかりムダに離れているから、どうしたってそれなりの時間が掛かってしまう。だから、僕らが目にする星というのも、本当はすでに消えて無くなっているかも知れないのだ。今は無き星の輝きを目にして、僕らはその美しさに見取れたり、妙に虚しさを感じたりする。そして、悠久の時間と空間を越えて、その星に思いを馳せる。
僕達も命を燃やしているのだろうか。その光を目撃した誰かが、またいつかその光を懐かしんでくれるようにと、目には映らない光輝を僕らの心に投げ掛けているのだろうか。もしもそうだとしたら、僕も彼女もそうだとしたら…。
「僕は忘れないよ」
素直な響きがした。今だけは、彼女と二人だけのこの空間が愛おしかった。
「だから君も忘れないで。僕のこと」
何のオブラートにも包まず、どんな顔で受け取られるかも分からなかったが、確かに僕は大切なものを渡した。普段の僕だったら決して出来ないような事だったが、恥ずかしさも嫌らしさも飛び越えて、この言葉だけは今伝えたいと思った。やっと僕の中にも、一つ終止符が打てた。
彼女は黙って聞いていたが、少しの沈黙を置いて、ようやく口を開いた。
「いやだなぁ、何だかシリアスになっちゃって」
さっきまでの彼女はどこ吹く風、笑い交じりな声で僕の真剣さを吹き飛ばした。それでも、僕の心はすっきりとしていた。恥ずかしさや後ろめたさなど、どこをどう探しても見当たらなかった。
ふと窓の外に目をやると、どこから来たのか、小さな白い雲がプカプカと空中を漂っていた。広い空の端っこが、徐々に赤みを帯び始めていた。
「でも、ありがとう」
彼女は、机の上に散らばった勉強道具を掻き集めると、脇に掛けてあった鞄の中に放り込んだ。そろそろ完全下校の時刻が近付いていた。知らない間に、だいぶ時間が経っていたようだ。
「今日ね、うちのお母さん誕生日なんだ」
実の所、明日は僕の父親の誕生日だった。母は先月に過ぎてしまった。
「だから、何か買ってあげようと思って」
鞄を背負うと、彼女は僕の方に向き直った。
「そんな訳で、じゃあね」
どんな訳だ。まさしく、笑顔を振りまくとはこの事だ。それでこそ普段通りの彼女だった。スタスタと去っていく彼女の背中に、僕は言い知れぬ何かが喉の奥から込み上げてくるのを感じていた。それはすぐに言葉となって口から出てきた。
「あの、君に…!」
勢い余って、立ち上がった拍子に机を蹴り倒してしまった。その大きな騒音に、僕の大事な台詞が掻き消されてしまった。彼女は驚いたようにこっちを見ていた。
「…私に、何?」
本当に、さっきまでの彼女と同一人物だとは思えなかった。あの、無為の境地に達したような横顔からは想像も出来ないほど、今の彼女は俗物的でさえあった。いや、本来それで正しいのだ。僕は台詞をリピートした。
「…君に言いたいことがあるんだ」
彼女はきょとんとした顔を僕に向けていた。少なくとも、僕にはそう見えた。本当は彼女にはお見通しなのかも知れないけど。
「なに?言いたいことって」
「まあ、今は言わないけどね。…明日教えてあげるよ」
「えーっ、何それ…」
「だって、そうすればさ、君は明日の事が気になって、そうすれば明日死ぬなんて思わないんじゃない?それこそ成仏できないよ」
言った後で、『何言ってんだ、オレ』とちょっぴり後悔した。そこまでカッコ良くもなかった。そんな僕を察してかどうなのか、彼女はほんのちょっと微笑んでいた。愛想笑いでない事を願うばかりだったが、今更ながら、今日初めて彼女の顔をちゃんと見たような気がした。
「だからさ…。じゃあ、またあした」
僕の一言で、彼女が明日に希望をつないでくれるのなら、それは僕にとって何となく幸せな事だった。それが、他でもなく彼女だというのが、一番素晴らしいことだった。
「…うん、またあした」
彼女は帰った。一人残された僕は、彼女の座っていた席をボオッと眺めながら、一連の出来事を振り返っていた。なんだか変な話だったな。