君が死ぬ時には
放課後の自習室、僕と二人だけの所で、彼女は僕にこう言った。
「私が明日死ぬとしたらどうする?」
あまりに唐突すぎて、最初はいったい何の冗談かと思ったが、彼女はクスリとも笑うことなく僕の返事を待っていた。窓際の席で、僕の前に彼女が座っていて、彼女は窓の向こうの何処とも分からない一点に目を向けているようだった。
「何だよ、いきなり」
静かな教室の中で、僕の言葉はあまりにも無頓着に響いた。彼女が何を期待していたのかは分からないが、相手がまともに答えるとも思っていなかったはずだし、僕も様子見しなければ相手の本意は探れなかった。僕の返答を受けて、彼女は頬杖を付きながら、あからさまな落胆の溜息を吐いてみせた。
「私が、自分が明日死ぬと分かっていて、それをあなたに教えてあげるの。それを知らされた時、あなただったらどうするのかなあって」
「『どうする』って、何かしてやるって事?」
「別に何でもいいんだけどさ…」
彼女はまた黙ってしまった。何だか妙に深刻な空気が、僕と彼女の間に流れていて、やがて教室もそんな空気に満たされてしまった。僕は、誰でもいいからこの嫌な流れを断ち切ってくれやしないかと、ドアの方を見つめて来客を待ち望んでいた。本当に、根暗だろうとムードメーカーだろうと、誰でも良かったのだが、不幸なことに時間だけが来ては過ぎ去って行くだけだった。仕方なしに僕は口を開いたが、それを遮って彼女の言葉が流れてきた。
「時々思うんだよね。もしも私が死んだ時、いったいどれだけの人が私の為に泣いてくれるんだろうって。それでさ、その中のどれだけの人が私のことを忘れないでいてくれるんだろう。そう思わない?」
そんな事を聞かれても、無茶振りに等しい暴挙だったが、彼女がこんな事を口にするなんて予想もできなかった。普段はハッチャけているくせに、変に感傷的なことを言ってくれるもんだ。まさか本当に死ぬなんて事は。…まあ、ある訳はない。
「どうしてそんなこと聞くんだ」
「君は私のために泣いてくれるの?」
危うくムセるところだった。深刻を通り越して、僕には彼女の言っていることがとても滑稽に聞こえた。それは勿論、普段の彼女の性格と比較してのことだが、さっきも言った通り、明るくてハッチャけていて、人間のいわゆる闇の側面とはまるで縁の無さそうな人なのだ。彼女は。そんな人が、こんな真面目で暗いことを質問してくるのだから、どうしたって僕は『こいつ、何か企んでるな』と思うしかなかった。
「何が言いたい?」
「何って、そのまんまだよ。あなたは私が死んだら泣いてくれるのって」
「泣いて欲しいのか」
「そうは言ってないけどね」
同情でも買って欲しいのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。彼女の喋り方はあくまで淡々としており、一度も淀むことなく、心の中に浮かんで来たことをそのまま口に出しているようだった。僕は少しだけ感動してしまった。
窓の外を向いたまま、彼女の目線は変わっていなかった。時々僕の方をのぞく以外は、例のどこか遠い場所を見つめ続けていた。
「僕は泣くかどうか分からないけど、それでも君を忘れることはないと思う よ」
これは本心だった。彼女とは高校に入ってからの付き合いしかないが、それでも、色々な場面で助けられることが多かった。彼女はそれ程には思っていないかも知れないが、恐らく本人の思っている以上に僕は彼女に感謝しているし、もしも彼女がいなかったら今の僕は無かったに違いないのだ。そんな大事な人を忘れるはずがない。
しかし、それは泣く事とは別の問題だ。少なくとも僕自身はそう思っていた。彼女は僕の言葉を受けて、まず最初にクスッと笑ってこう言った。
「なぁんだ、泣いてくれないのか」
何で最初に笑われた(それも鼻で笑われた!)のかは分からなかったが、彼女がそう言ったのは、僕にとってはいささか意外なものだった。まるで、彼女が僕に泣いてもらえるのを期待していたようだったからだ。
しかしそう考えた時、僕は、また「自分に良いように考える」という悪癖が出たと思った。僕はそういう人間だった。人の言動に対して、自分に良いように勝手に解釈してしまって、結局それが違っていて後で恥ずかしい思いをするという事が何度もあった。これだって、まさか彼女が僕にそんな期待をしているはずもなかった。彼女にしてみれば、僕なんて人付き合いの一環でしかないだろう。それ以上でも、出来ればそれ以下でもないはずだった。全く早合点も良いところだ。
だが、次の彼女の一言で、僕の悲観的観測は一掃される事となった。
「君が泣いてくれるなら嬉しいんだけどな」
このご返事をどう受け止めたら良いのか、僕は理解に苦しんだ。その気になれば、本当にその気で読めてしまえる言葉だが、そこまで深い意味もなく発せられた言葉であるようにも思えた。単なる友人として、とか。
「深い意味はないけどね」
ああ、やっぱり。ホッとしたような、残念なような、妙な気持ちだ。
「それとも、あれなのかな。僕は泣いた方がいいのかな」
彼女は答えなかった。目線はさっきよりも上向きになっていた。その目は明らかに、空の中に漂っている綿雲を捉えていた。
「いいの。忘れてくれなければそれで、そういう人がいてくれるだけで」
雲は気流に乗ってゆっくりと歩んでいたが、ちょっとしたことで散り散りになってしまうくらいの脆さもその歩みからは読み取れた。それを見ながら、僕も少し感傷的な気分になっていた。
「あの雲もいつかは消えるんだよな。僕らと同じで」
こんな事を言って、僕には、自分が一体何を言わんとしているのか分からなかった。単に気分だった。彼女は何も言わなかったが、その背中からは幾らか安堵の表情が見受けられた。彼女を取り巻いていたさっきまでの深刻な雰囲気も、だいぶ和らいでいるように感じられた。彼女は柔らかい溜息を吐いた。
「変なこと聞いちゃって、ごめんね」
そう言うなり、彼女は前に向き直ってペンをカリカリ言わせ始めた。よく考えたら、ここは自習室なのだ。相変わらず人は増えておらず、二人ぼっちの時間が長く続いていたことになる。
彼女は勉強に没入し始めていたが、僕の中では、どことなく消化できていない思いが、グルグルと渦を巻き始めていた。相当気持ち悪いもので、味のないガムをいつまでも口の中で噛んでいるような心地だった。彼女の「死」についての問題は、彼女の中では終止符が付いていたのかも知れないが、それは彼女の自己満足に思えたし、僕に聞いておきながら僕だけ取り残すのは少々不作法にも感じられた。
「どうしてあんなこと聞いたの?」
彼女は聞いていなかった。そんなフリをしていた。僕の言葉を掻き消すように、ペンのカリカリは相変わらず止まなかった。それに伴って、僕の中の不満もちょっとずつかさを増していった。当てつけにも聞こえる調子で僕は言った。
「まさか、明日死ぬ訳じゃないでしょ」
瞬間、ペンの音が止んだ。何の音もしなかった。自分の緩い心音だけが、鼓膜を震わせていた。それはまさに静寂だった。
独り言のように、彼女はボソッと呟いた。
「そんな訳ないじゃん」
「私が明日死ぬとしたらどうする?」
あまりに唐突すぎて、最初はいったい何の冗談かと思ったが、彼女はクスリとも笑うことなく僕の返事を待っていた。窓際の席で、僕の前に彼女が座っていて、彼女は窓の向こうの何処とも分からない一点に目を向けているようだった。
「何だよ、いきなり」
静かな教室の中で、僕の言葉はあまりにも無頓着に響いた。彼女が何を期待していたのかは分からないが、相手がまともに答えるとも思っていなかったはずだし、僕も様子見しなければ相手の本意は探れなかった。僕の返答を受けて、彼女は頬杖を付きながら、あからさまな落胆の溜息を吐いてみせた。
「私が、自分が明日死ぬと分かっていて、それをあなたに教えてあげるの。それを知らされた時、あなただったらどうするのかなあって」
「『どうする』って、何かしてやるって事?」
「別に何でもいいんだけどさ…」
彼女はまた黙ってしまった。何だか妙に深刻な空気が、僕と彼女の間に流れていて、やがて教室もそんな空気に満たされてしまった。僕は、誰でもいいからこの嫌な流れを断ち切ってくれやしないかと、ドアの方を見つめて来客を待ち望んでいた。本当に、根暗だろうとムードメーカーだろうと、誰でも良かったのだが、不幸なことに時間だけが来ては過ぎ去って行くだけだった。仕方なしに僕は口を開いたが、それを遮って彼女の言葉が流れてきた。
「時々思うんだよね。もしも私が死んだ時、いったいどれだけの人が私の為に泣いてくれるんだろうって。それでさ、その中のどれだけの人が私のことを忘れないでいてくれるんだろう。そう思わない?」
そんな事を聞かれても、無茶振りに等しい暴挙だったが、彼女がこんな事を口にするなんて予想もできなかった。普段はハッチャけているくせに、変に感傷的なことを言ってくれるもんだ。まさか本当に死ぬなんて事は。…まあ、ある訳はない。
「どうしてそんなこと聞くんだ」
「君は私のために泣いてくれるの?」
危うくムセるところだった。深刻を通り越して、僕には彼女の言っていることがとても滑稽に聞こえた。それは勿論、普段の彼女の性格と比較してのことだが、さっきも言った通り、明るくてハッチャけていて、人間のいわゆる闇の側面とはまるで縁の無さそうな人なのだ。彼女は。そんな人が、こんな真面目で暗いことを質問してくるのだから、どうしたって僕は『こいつ、何か企んでるな』と思うしかなかった。
「何が言いたい?」
「何って、そのまんまだよ。あなたは私が死んだら泣いてくれるのって」
「泣いて欲しいのか」
「そうは言ってないけどね」
同情でも買って欲しいのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。彼女の喋り方はあくまで淡々としており、一度も淀むことなく、心の中に浮かんで来たことをそのまま口に出しているようだった。僕は少しだけ感動してしまった。
窓の外を向いたまま、彼女の目線は変わっていなかった。時々僕の方をのぞく以外は、例のどこか遠い場所を見つめ続けていた。
「僕は泣くかどうか分からないけど、それでも君を忘れることはないと思う よ」
これは本心だった。彼女とは高校に入ってからの付き合いしかないが、それでも、色々な場面で助けられることが多かった。彼女はそれ程には思っていないかも知れないが、恐らく本人の思っている以上に僕は彼女に感謝しているし、もしも彼女がいなかったら今の僕は無かったに違いないのだ。そんな大事な人を忘れるはずがない。
しかし、それは泣く事とは別の問題だ。少なくとも僕自身はそう思っていた。彼女は僕の言葉を受けて、まず最初にクスッと笑ってこう言った。
「なぁんだ、泣いてくれないのか」
何で最初に笑われた(それも鼻で笑われた!)のかは分からなかったが、彼女がそう言ったのは、僕にとってはいささか意外なものだった。まるで、彼女が僕に泣いてもらえるのを期待していたようだったからだ。
しかしそう考えた時、僕は、また「自分に良いように考える」という悪癖が出たと思った。僕はそういう人間だった。人の言動に対して、自分に良いように勝手に解釈してしまって、結局それが違っていて後で恥ずかしい思いをするという事が何度もあった。これだって、まさか彼女が僕にそんな期待をしているはずもなかった。彼女にしてみれば、僕なんて人付き合いの一環でしかないだろう。それ以上でも、出来ればそれ以下でもないはずだった。全く早合点も良いところだ。
だが、次の彼女の一言で、僕の悲観的観測は一掃される事となった。
「君が泣いてくれるなら嬉しいんだけどな」
このご返事をどう受け止めたら良いのか、僕は理解に苦しんだ。その気になれば、本当にその気で読めてしまえる言葉だが、そこまで深い意味もなく発せられた言葉であるようにも思えた。単なる友人として、とか。
「深い意味はないけどね」
ああ、やっぱり。ホッとしたような、残念なような、妙な気持ちだ。
「それとも、あれなのかな。僕は泣いた方がいいのかな」
彼女は答えなかった。目線はさっきよりも上向きになっていた。その目は明らかに、空の中に漂っている綿雲を捉えていた。
「いいの。忘れてくれなければそれで、そういう人がいてくれるだけで」
雲は気流に乗ってゆっくりと歩んでいたが、ちょっとしたことで散り散りになってしまうくらいの脆さもその歩みからは読み取れた。それを見ながら、僕も少し感傷的な気分になっていた。
「あの雲もいつかは消えるんだよな。僕らと同じで」
こんな事を言って、僕には、自分が一体何を言わんとしているのか分からなかった。単に気分だった。彼女は何も言わなかったが、その背中からは幾らか安堵の表情が見受けられた。彼女を取り巻いていたさっきまでの深刻な雰囲気も、だいぶ和らいでいるように感じられた。彼女は柔らかい溜息を吐いた。
「変なこと聞いちゃって、ごめんね」
そう言うなり、彼女は前に向き直ってペンをカリカリ言わせ始めた。よく考えたら、ここは自習室なのだ。相変わらず人は増えておらず、二人ぼっちの時間が長く続いていたことになる。
彼女は勉強に没入し始めていたが、僕の中では、どことなく消化できていない思いが、グルグルと渦を巻き始めていた。相当気持ち悪いもので、味のないガムをいつまでも口の中で噛んでいるような心地だった。彼女の「死」についての問題は、彼女の中では終止符が付いていたのかも知れないが、それは彼女の自己満足に思えたし、僕に聞いておきながら僕だけ取り残すのは少々不作法にも感じられた。
「どうしてあんなこと聞いたの?」
彼女は聞いていなかった。そんなフリをしていた。僕の言葉を掻き消すように、ペンのカリカリは相変わらず止まなかった。それに伴って、僕の中の不満もちょっとずつかさを増していった。当てつけにも聞こえる調子で僕は言った。
「まさか、明日死ぬ訳じゃないでしょ」
瞬間、ペンの音が止んだ。何の音もしなかった。自分の緩い心音だけが、鼓膜を震わせていた。それはまさに静寂だった。
独り言のように、彼女はボソッと呟いた。
「そんな訳ないじゃん」