羊の皮をかぶった山羊
「だから無駄だと言ったんだ」悪魔が呆れたように呟いた。
「ではどうすれば……」
「喜べよ。死なないんだぜ。誰もが望むことだ。食わなくても死なない。おまえは魂を食わずに生きられるんだ。パンを食わなくてもいいんだぜ。うれしいだろ?」
「うれしいはずがありません」
その時、部屋の外から男の声が聞こえた。「起きたのかい?」
その声に続いて扉を開け部屋に入ってきたのは、学者風の壮年の男だった。
「わかるかい? 君は溺れていたんだ。たまたま通りがかったぼくがこの家に連れてきた」
「……ありがとうございます」
「家はどこだい? 名前は?」
「サクラと申します。家は……」とサクラは言いよどんだ。
学者風の男は、サクラに言えない事情がある、と感じたようで、妙に明るい声を出した。「まあ、急ぐことはないだろう。元気になったらぼくがどこへでも送っていこう。それまではここでゆっくり休んでいて構わないよ」
「すぐに出て行きますので」
「無理をしたらダメだよ。ぼくひとりの家だからね。遠慮することはない。何か食べるものを持ってくるよ。食べられるかい?」と言うと学者風の男はサクラの答えを待たずに部屋を出ていった。
サクラは怪我を負っているのではなかったので、すぐにベッドから立ち上がり、男を追って部屋の扉を開けた。礼を言ってすぐに出ていくつもりだった。
「あの、ありがとうございました。しかし、わたしはすぐに行きますので」とサクラは男の後ろ姿に頭を下げた。
しかし、学者風の男は振り返ることなく、その場に倒れた。
「こいつはうまくないな。もっと若い男がいい」悪魔が満足げに言った。
「あなたはこの方を……?」
「ああ、食った」
「なんということを……。ああ、もう、わたしはどうすればいいのか……」
「気にするな。パンと同じだって言っただろ」
「決めました。わたしはもう死のうだなんて考えません」
「ああ、そうしろ」
「そして、二度と男性の、いいえ、人間のそばには寄りません」
「おい、それはちょっと待ってくれよ。困るんだよ」
「もう決めたことです」
サクラはそれ以降、悪魔の言葉に耳を貸さず、学者風の男の遺体をベッドに運び花を添えてからその家を出ていった。そして、深い森の奥に入った。
サクラが森の奥でただ生きているだけの存在になってからも悪魔はしきりに語りかけていたが、彼女はすべての声を無視していた。やがて悪魔はサクラの決意が揺るがないことを悟り、彼女に語りかけた。「もうここにいてもしかたがない。おれは行くぜ」
サクラはただ木を背にして座ったまま悪魔の言葉に応えなかった。
「話を聞けよ。なあ、前におれとおまえは同じ存在だって言ったよな。おれがおまえから離れるとどうなるかわかるか?」
「……わたしは死ねるのですか?」
「ハハハ。やっとしゃべりやがったな。だが残念だな。おまえは死なない。おまえが喜びそうなことはしないさ。おれがどこに行ってもおまえは生き続けるんだ」
死ねないのならどうでもいい、とサクラはすぐに興味を失って再び黙り込んだが、悪魔は構わずに話を続けた。
「だが、それだけだ。それ以上のことはしない。飯にありつけないのなら無駄な力を使うことはないからな。おまえはどうなると思う? 教えてやる。おまえのきれいな顔も体もこれまでだ。きっとブサイクな女になるだろうな。おれがいなくなれば男を殺すことはないが、ブサイクなおまえに寄ってくる男なんていやしないぜ。ああ、今までの礼に金を置いていってやるよ。その金でどこかに城でも建てて永遠にひとりで生きろ。じゃあな」
サクラがふと気づいて自分の手を見ると、かつての砂色の柔らかな手は失われており、まるで漁師の男のようにゴツゴツとした手がそこにあった。悪魔が去ったことは何となく感じていた。背にしていた木に手をついて立ち上がると、妙に体が重かった。サクラは森を通る小川まで歩き、そこに自分の姿を映した。それはただの醜女だった。顔も体も醜く太り、泥と灰を交互に散らしたような髪がまばらに生えていた。大きく下品な口、不自然に長い鼻、つり上がった目、それらを備えた顔には血しぶきを受けたような赤黒い斑点がいくつもあった。
すでに厭世的な世捨て人になっていたとはいえ、さすがに自身の変わりように驚き、サクラは悲しみのために黒い油のような涙を流した。指でその涙を拭うと嫌な臭いが指先に残った。こんなことならば数人の男を犠牲にしてでも以前のままでいたかった、とサクラはわずかに後悔し、その自分の下劣な心を憎んで再び泣いた。それからすぐに死のうと考えて、サクラは小川に顔を浸して意識が消えるのを待ったが、やはり死ぬことはできず、ただ目から流れた黒いものが清い小川を穢していくようだった。
しばらく経って、サクラはようやく思い直した。深い森の奥でひとりで生きていこう、と決めたのだから今さら姿が変わったところで気にすることはないのだ。サクラはこう考えて心軽くした。元いた木のそばに戻ると、先ほどは気づかなかった大きな黒い袋があり、その中は大量の金や珊瑚、真珠で満たされていた。悪魔の置き土産だ。金を使う当てもなく、サクラはその袋を横にして座り、目を閉じた。
それから数日間、サクラは森の奥でただ座り、眠り、時に自死を試したがやはり死ぬことはなく、また座る生活を続けていた。しかし、そこに客がやってきた。悪魔でも森の動物でもない。それは人間の男だった。その男はサクラを見かけると、人外の何かだと思ったのか、剣を抜いて構えた。それからサクラが人であると気づき、そのあまりに醜い姿に顔をしかめた。
「おい、こんなところで何をしている」
サクラはその声と顔に見覚えがあった。男は以前サクラを見張っていた牢番だったのだ。
「何もしておりません」サクラは自分がサクラであることは言わずに短く答えた。
「ここに住んでいるのか?」
「はい」
「おかしな奴だな。まあ、何だっていい。この辺りで聖霊を見かけるという報告があってな。その調査に来たのだが、何か知っているか?」
それは以前この地でサクラの姿を見かけた猟師からの報告で、その頃のサクラはまだ美しく、猟師は聖霊だと思い込んだのだった。
「いいえ。わたしは見かけたことがございません」
「そうか。では、次におまえのことを聞こう。どうしてこんな場所に住んでいる?」
「今はもう理由がわかりません。以前は人を殺さないためでした」
「殺さないため? おい、おまえは罪人なのか? どこかから逃げてきたのか?」
「人を四人、いいえ、五人殺しました。四人まではあなたもご存知だと思いますが」
「おれも知っているだって? 詳しく話せ」
サクラは、自分がサクラであること、悪魔のこと、悪魔が去ってからのことを男に話した。
「あなたがあのサクラさんだなんて……、とても信じられん」
「信じていただかなくても結構です。森の獣でも見たものと思い、どうかこのまま去ってください」
「……いいや、その話が本当ならばおれの家に来てくれ。以前にそう話したはずだ」
「でも、それは以前のお話で……」
「以前でも何でも構わないさ。おれは目に見える姿だけで人を判断するような愚かな男じゃない。心は以前のサクラさんのままなんだろ?」
「しかし……」
作品名:羊の皮をかぶった山羊 作家名:ただ書く人