郷愁
「あんたの昔の未発表の原稿を読ませてもらったけど、パクってないよ。発想のヒントにしたかも知れないけど……」
妻が小説を書いていたことを、笠山は全く知らなかった。「晴天の霹靂」というのはこの場合当てはまるのだろうか。
「桃をくれるんだろ。訴えないよ。安心しろ」
「賞金と退職金で改築したよ」
改めて妻の顔を見ると、その行為が数年振りのような気がした。
「だけど、お前は小説が嫌いだと云って、俺の本を読んだこともなかっただろう」
「読むのは嫌いだけど、書くのは好きなの」
「へえ……で、これからも続けるのか」
「上に出版社のひとが来てるんだけど、あんたも連載ものを書いてみない?」
「俺は単行本オンリーでやって行くつもりなんだ。しかし、連載が決まったのか、まいったな」
笠山は思わず笑った。
「お互いに干渉しないほうがいいと思って家を分けたんだから、もう何も云わないよ」
「なんだかあり得ない変な話だな」
紙袋を夫に渡した妻は最後にじゃあね、といって裏の玄関のほうへ歩いて行った。笠山は「灯台元暗し」と「門前の小僧習わぬ経を読む」いうことばを想い浮かべながらもう一度笑い、玄関のドアを閉めた。