郷愁
半年余りかかった長編が脱稿すると、虚脱感が来た。何日も畑の草取りなどをしたり、録画したものがたまっている映画を観たりしていた。自転車で一日走り回った日もあった。
日灼けの名残のせいでまだ首筋や両腕に痛みが残っていた。
取材旅行から戻って十日が過ぎていた。新しい作品の構想を練り始めている。数年前から考えていたものが、この数日間に次第に明瞭になって来ていた。大きな紙に登場人物たちの性格や生い立ちなどを記し、また、様々なできごとを時系列的に整理している。しかし、そのようにして全てを詳細に、執筆に入る前に決定してしまうと、或る種の報告書的になってしまい、面白みが半減する。登場人物の動きが硬いものになってしまうのである。
二階に数人の人の気配が動いていた。はっきりとした物音ではないが、何かが伝わって来ていた。そう思っていると、玄関へ電子音に呼ばれた。
ドアを開けると怒ったような顔の妻が立っていた。笠山は相手の顔ではなく、持っているものを見ていた。
「桃は好きだったよね」
片手に下げている紙袋に、云ったものが入っているらしい。
「まあ、そうだな」
そのあと、妻は或る文学賞の名称を口にした。
「永井しずかってさ、あたしだよ」
それが今年の受賞者の名前だった。笠山の頭の中で火花が散ったような衝撃を感じた。