郷愁
「そうですか……ありがとうございます」
「これからお食事ですか?」
「いや、済んだのでもう出ようと思っていました」
既に店の外に居てそう云うのはおかしなものだと、云ってから思い、思いながら意味もなく時計を見た。午後四時になろうとしている。
「片桐さん。知り合いの方?」
遅れて階段を登って来た同僚らしい髪の長い女性は、立ち話のふたりを交互に眺めている。こちらは育ちの良さそうな「お嬢様」といった雰囲気である。
「みきちゃん!笠山慎之介先生よ」
片桐という女性は、笑顔を輝かせてはしゃいだ。
「ごめんなさい。わたしには……」
みきちゃんと呼ばれた女性は、困惑をその端正な顔に宿らせている。
「ノーベル文学賞はまだですから、ご存じなくても気にしないでください。じゃあ」
笠山は笑顔になってそんな冗談を云うと、慌てて店内に戻った。テーブルから伝票を取り、レジカウンターの前へ行った。行員のふたりがどの辺りへ消えたのかは判らなかった。
何となく河すじへ歩いて来た。急な小道を登り詰めたときに「どっこいしょ」と声に出した。水の流れる音が満ち溢れる堤防の上には少し冷たい風が吹いていたが、強烈な陽射しに晒されて来た身にはありがたかった。下流に目をやったのは、遠い鉄橋を渡る列車の音が風に流されてきたからだった。今年初めてのトンボを見た。唐突に熱いものが胸の内に湧き上がった。郷愁だと思った。旅先でも、何度かそういうことがあった。
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